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 ▼時代・教育・言葉  流水 04/3/30(火) 15:04
   ┣Re(1):時代・教育・言葉  数理梵哲 04/3/31(水) 8:50
   ┃  ┗Re(2):時代・教育・言葉  流水 04/3/31(水) 10:21
   ┃     ┗Re(3):時代・教育・言葉  海幸彦 04/3/31(水) 10:57
   ┃        ┗Re(4):時代・教育・言葉  流水 04/3/31(水) 12:03
   ┃           ┗Re(5):時代・教育・言葉  海幸彦 04/3/31(水) 12:21
   ┣Re(1):時代・教育・言葉  Gokai Sezutomo 04/3/31(水) 22:28
   ┃  ┗Re(2):時代・教育・言葉  流水 04/4/1(木) 10:45
   ┃     ┗Re(3):時代・教育・言葉  Gokai Sezutomo 04/4/1(木) 22:39
   ┃        ┗Re(4):時代・教育・言葉  流水 04/4/1(木) 23:22
   ┃           ┗Re(5):時代・教育・言葉  Gokai Sezutomo 04/4/2(金) 1:09
   ┃              ┗Re(6):時代・教育・言葉  流水 04/4/2(金) 9:20
   ┃                 ┗Re(7):時代・教育・言葉  Gokai Sezutomo 04/4/2(金) 22:47
   ┃                    ┗Re(8):時代・教育・言葉  流水 04/4/2(金) 23:49
   ┃                       ┣Re(9):時代・教育・言葉  Gokai Sezutomo 04/4/3(土) 0:28
   ┃                       ┗Re(9):時代・教育・言葉  Gokai Sezutomo 04/4/3(土) 22:31
   ┃                          ┗Re(10):時代・教育・言葉  流水 04/4/4(日) 14:44
   ┗Re(1):時代・教育・言葉  団塊党 04/4/8(木) 5:42

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 ■題名 : 時代・教育・言葉
 ■名前 : 流水
 ■日付 : 04/3/30(火) 15:04
 -------------------------------------------------------------------------
   高村薫という小説家がいる。彼女の「レデイ・ジョーカー」は、紛れも無く近来の傑作だと思う。
明らかに「グリコ・森永事件」を下敷きにした推理小説だが、時代の底に錘を下ろした見事な時代批評にもなっている。
企業内部の暗闘・部落問題・メデイア・警察、検察の内部問題など表象的な問題をまぶして味付けされているが、彼女が描きたかったのは「時代意識」という顔の見えない者に翻弄されている人間であったと思う。
 
彼女はこの作品で、好むと好まざるとにかかわらず【ジョーカー】を引かざるを得なかった社会の底辺に蠢く人間たちの意識を描きたかったのである。
私は、人間と書かずに【意識】と書いたが、ここに高村薫氏の時代感覚の鋭敏さがある。

【現代】という時代は、人間の「個性化」が叫ばれるに比較して、「言葉」が希薄になり、「言葉」に表象される人間の内部の軌跡がアモルフになった時代である。
 
これが、「時代」を見えなくし、「人間」を見えなくしている。彼女は、この見えない人間の【意識】を描こうと試み、それに見事に成功した作品だと思う。
これが、私の言う『流民意識』であると思う。「農村共同体意識」から、『資本制の膨張』とともに、『流民』となり流れ出た多くの民衆の根底に流れている【意識】を見事に捉えた傑作である。
 
その彼女が、毎日新聞の「時代の風」という欄で、「可愛いの背後にあるもの」という評論を書いていた。彼女の人間理解・時代理解の秘密が垣間見え、見事な時代批評・教師批評・子供理解になっていた。

彼女は「鴇(とき)」の誕生のニュースを喜ぶ人々を見ながらこう言う「それにしても老いも若きも一羽のひなに【可愛い】と目を細めるのは、相手が幼いひなだからで、親鳥の鴇を【可愛い】とは言わない。何故だろうと考えるうちに、【可愛い】という言葉は、確たる根拠を必要としない情緒の言葉だからだと思い至った」と述べ、「さて、たかが言葉一つの問題だが、近年、親や教師が子供たちを語るとき、【可愛い】【可愛くない】という言葉を実に無造作に使う。
誰しも心の中では色々思っても、家庭や学校で、大人たちが子供について発する決定的な一言が【可愛い】【可愛くない】というのは、どんなものだろう」という疑問を投げかけ、彼女の知人の若い母親・女性教師の例を挙げ、こう述べている。

「子供にとって【可愛い】【可愛くない】という評価は、すなわち自分が愛されているか否かの決定的な分かれ目になる。それが、生存にかかわる大問題だと言う事を本能的に知っているからこそ、子供たちは大なり、小なり、敏感に大人の顔色をうかがっている。」と。

そして、大人の心の揺れを分析しながら「しかし、子供には大人の不条理を理解する義務はないし、自分の情緒を剥き出しにする大人を前にした時、恐怖や幻滅しかやってこないものだ」と断ずる。そして「たいていは我慢の範囲であっても、子供たちにとってどうしても許せない一言というものがある。【可愛い】【可愛くない】はその一つである。これだけは子供に言ってはならないし、子供について形容してはならない言葉ではないかと思っている。自分の子供であれ、人様の子供であれ、だ」と述べている。

言葉についての「鋭敏」さは、さすが小説家であると思う。彼女の定義に従えば、「情緒的言葉」が学校生活、なかんずく若い教師を中心に氾濫し始めたのは、何時頃からだろうと考えてみた。あれはメデイアで「新人類」という言葉が氾濫し始めた時期では、ないかという気がするが判然とはしない。
 
ただ、子供評価をする時、「明るい」「暗い」という二分法が多く語られるようになったのは明らかにバブル時代前後であった事は確かである。
「明るい」が人間としての重要な価値であり、「暗い」がマイナスの価値を帯びて使われたのは確かである。そして、この評価を下す教師に、その言葉についての逡巡が無かった事も確かである。

私は、当時子供たちのこの風潮に危惧観を覚え、真剣に考えたものである。この当時の学級通信に、「時代が明るいときは信用できない。時代が暗いときは、信用できる」という太宰治の言葉を引用して、「内省的人間へのすすめ」を書いた記憶がある。

先日、当時の教え子4人が尋ねてきて、この「学級通信」について感想を述べてくれた。「当時先生は馬鹿ではないかと思った」と正直な気持ちを言ってた。「今はどうだ」と尋ねると、「よく分かる」と言ってくれた。
ここ数年の不況が、子供たちを【内省的】にさせていたのだと思う。同時に、太宰の逆説「希望を求めるからこそ、暗い時代が信用できる」という思いもきちんと理解していた。
【明るい時代】の人間のモラル・ハザードもよく理解していた。

確かに、時代が人を変え、言葉を変え、教育を変える。テレビで教師が笑いを学ぶ姿が放映されていたが、教師の授業維持の努力が透けて見え身につまされた。
言葉についての論争も盛んだが、高村薫氏の手法は大変参考になる。日常のさりげない言葉を真剣に考える事により、時代の底流に錘を下ろす手法は、言葉によって自らの存在を主張する以外にない教師にとっては最上の参考書ではないかと思う。
 
彼女のいう[「可愛い」「可愛くない」と言う言葉は、決して子供たちに使ってはならない]は優れて「人間的」感性である。[子供]の傷つきやすい感性を本当に理解している人の言葉である。
【言葉】とは、これくらい優れて人の心を包み、暖かさを伝えるが、同時に詩人が歌ったように「俺の言葉は熊の皮のように 人の心を傷つける」(吉本隆明・固有時の対話)ものである。
 
教師にとって【言葉】とは何かの論議は、この時代だからこそ大切であり、日常の言葉に万感の想いを乗せる「新しい言葉使い」のあり方を真剣に模索する必要があると思う。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):時代・教育・言葉  ■名前 : 数理梵哲 <log29@mail.goo.ne.jp>  ■日付 : 04/3/31(水) 8:50  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:
>高村薫という小説家がいる。彼女の「レデイ・ジョーカー」は、紛れも無く近来の傑作だと思う。
>明らかに「グリコ・森永事件」を下敷きにした推理小説だが、時代の底に錘を下ろした見事な時代批評にもなっている。
>企業内部の暗闘・部落問題・メデイア・警察、検察の内部問題など表象的な問題をまぶして味付けされているが、彼女が描きたかったのは「時代意識」という顔の見えない者に翻弄されている人間であったと思う。
> 
>彼女はこの作品で、好むと好まざるとにかかわらず【ジョーカー】を引かざるを得なかった社会の底辺に蠢く人間たちの意識を描きたかったのである。
>私は、人間と書かずに【意識】と書いたが、ここに高村薫氏の時代感覚の鋭敏さがある。
>
>【現代】という時代は、人間の「個性化」が叫ばれるに比較して、「言葉」が希薄になり、「言葉」に表象される人間の内部の軌跡がアモルフになった時代である。
> 
>これが、「時代」を見えなくし、「人間」を見えなくしている。彼女は、この見えない人間の【意識】を描こうと試み、それに見事に成功した作品だと思う。
>これが、私の言う『流民意識』であると思う。「農村共同体意識」から、『資本制の膨張』とともに、『流民』となり流れ出た多くの民衆の根底に流れている【意識】を見事に捉えた傑作である。
> 
>その彼女が、毎日新聞の「時代の風」という欄で、「可愛いの背後にあるもの」という評論を書いていた。彼女の人間理解・時代理解の秘密が垣間見え、見事な時代批評・教師批評・子供理解になっていた。
>
>彼女は「鴇(とき)」の誕生のニュースを喜ぶ人々を見ながらこう言う「それにしても老いも若きも一羽のひなに【可愛い】と目を細めるのは、相手が幼いひなだからで、親鳥の鴇を【可愛い】とは言わない。何故だろうと考えるうちに、【可愛い】という言葉は、確たる根拠を必要としない情緒の言葉だからだと思い至った」と述べ、「さて、たかが言葉一つの問題だが、近年、親や教師が子供たちを語るとき、【可愛い】【可愛くない】という言葉を実に無造作に使う。
>誰しも心の中では色々思っても、家庭や学校で、大人たちが子供について発する決定的な一言が【可愛い】【可愛くない】というのは、どんなものだろう」という疑問を投げかけ、彼女の知人の若い母親・女性教師の例を挙げ、こう述べている。
>
>「子供にとって【可愛い】【可愛くない】という評価は、すなわち自分が愛されているか否かの決定的な分かれ目になる。それが、生存にかかわる大問題だと言う事を本能的に知っているからこそ、子供たちは大なり、小なり、敏感に大人の顔色をうかがっている。」と。
>
>そして、大人の心の揺れを分析しながら「しかし、子供には大人の不条理を理解する義務はないし、自分の情緒を剥き出しにする大人を前にした時、恐怖や幻滅しかやってこないものだ」と断ずる。そして「たいていは我慢の範囲であっても、子供たちにとってどうしても許せない一言というものがある。【可愛い】【可愛くない】はその一つである。これだけは子供に言ってはならないし、子供について形容してはならない言葉ではないかと思っている。自分の子供であれ、人様の子供であれ、だ」と述べている。
>
>言葉についての「鋭敏」さは、さすが小説家であると思う。彼女の定義に従えば、「情緒的言葉」が学校生活、なかんずく若い教師を中心に氾濫し始めたのは、何時頃からだろうと考えてみた。あれはメデイアで「新人類」という言葉が氾濫し始めた時期では、ないかという気がするが判然とはしない。
> 
>ただ、子供評価をする時、「明るい」「暗い」という二分法が多く語られるようになったのは明らかにバブル時代前後であった事は確かである。
>「明るい」が人間としての重要な価値であり、「暗い」がマイナスの価値を帯びて使われたのは確かである。そして、この評価を下す教師に、その言葉についての逡巡が無かった事も確かである。
>
>私は、当時子供たちのこの風潮に危惧観を覚え、真剣に考えたものである。この当時の学級通信に、「時代が明るいときは信用できない。時代が暗いときは、信用できる」という太宰治の言葉を引用して、「内省的人間へのすすめ」を書いた記憶がある。
>
>先日、当時の教え子4人が尋ねてきて、この「学級通信」について感想を述べてくれた。「当時先生は馬鹿ではないかと思った」と正直な気持ちを言ってた。「今はどうだ」と尋ねると、「よく分かる」と言ってくれた。
>ここ数年の不況が、子供たちを【内省的】にさせていたのだと思う。同時に、太宰の逆説「希望を求めるからこそ、暗い時代が信用できる」という思いもきちんと理解していた。
>【明るい時代】の人間のモラル・ハザードもよく理解していた。
>
>確かに、時代が人を変え、言葉を変え、教育を変える。テレビで教師が笑いを学ぶ姿が放映されていたが、教師の授業維持の努力が透けて見え身につまされた。
>言葉についての論争も盛んだが、高村薫氏の手法は大変参考になる。日常のさりげない言葉を真剣に考える事により、時代の底流に錘を下ろす手法は、言葉によって自らの存在を主張する以外にない教師にとっては最上の参考書ではないかと思う。
> 
>彼女のいう[「可愛い」「可愛くない」と言う言葉は、決して子供たちに使ってはならない]は優れて「人間的」感性である。[子供]の傷つきやすい感性を本当に理解している人の言葉である。
>【言葉】とは、これくらい優れて人の心を包み、暖かさを伝えるが、同時に詩人が歌ったように「俺の言葉は熊の皮のように 人の心を傷つける」(吉本隆明・固有時の対話)ものである。
> 
>教師にとって【言葉】とは何かの論議は、この時代だからこそ大切であり、日常の言葉に万感の想いを乗せる「新しい言葉使い」のあり方を真剣に模索する必要があると思う。

高村薫と云う方は女性だったのですね。お名前だけは聞いたことがあったのですが、私はてっきり男性だと思っていました。失礼致しました。
ところで、言葉に対して敏感であれとの主張には共鳴します。ただ、根本的な問題として、哲学の貧困ということが考えられませんでしょうか。深く考えるということが希薄なような気がします。瞬間的な損得、効率の判断が優先され、じっくりと深く考えることが軽んぜられているように思うのは私だけでしょうか。
また、副詞を使うべき時に形容詞が多用されたり、逆に形容詞を使うべき時に副詞が使われたりしています。違和感を感じない人のほうが多いとしたら、言葉の感覚が変わり始めているのでしょうか。
ただ、可愛くないは使わないとしても、可愛いは大いに使って良いのではと思うのですが。ワンセットで使うのを避ける必要はないように思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):時代・教育・言葉  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/3/31(水) 10:21  -------------------------------------------------------------------------
   ▼数理梵哲さん:
>高村薫と云う方は女性だったのですね。お名前だけは聞いたことがあったのですが、私はてっきり男性だと思っていました。失礼致しました。
>ところで、言葉に対して敏感であれとの主張には共鳴します。ただ、根本的な問題として、哲学の貧困ということが考えられませんでしょうか。深く考えるということが希薄なような気がします。瞬間的な損得、効率の判断が優先され、じっくりと深く考えることが軽んぜられているように思うのは私だけでしょうか。

これは根深い問題ですね。哲学的にいえば、ポスト・モダンの欠陥が露呈していると考えられます。
きわめて、科学的・分析的であるように見えて、生きている人間のトータルな理解が弱いのです。
例えば、現在学校では、カウンセラー的手法が花盛りです。PTSDなどという耳慣れない言葉が飛び交い、その言葉を使えば何か人間を理解したような気になっているところに大きな陥穽があります。(※言葉のお守り的使用を読んでください)

しかし、人間の精神を事細かに分析しても、その人間のトータルな理解は難しいのです。
「可愛い」という言葉にしてもそうです。ある人間にとっては、可愛いという言葉が、その人の生きる支え(自信)になる場合もあれば、ある人間にとっては、可愛いという言葉が、【倣岸】さの源泉になる場合もあります。
また、ある人間にとっては、【可愛い】という言葉が自分を切り刻むナイフのような言葉になる場合もあります。

これが人の心の【不可解さ】でしょう。その意味で、教師とか大人の言葉は、重いのだと思います。
その人間をトータルに理解して、言葉を選ぶという作業は、きわめて哲学的営為を必要とします。
あなたのおっしゃる哲学の問題は、その意味で非常に大きいと思います。


>

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):時代・教育・言葉  ■名前 : 海幸彦 <hrdjapan@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 04/3/31(水) 10:57  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:
>▼数理梵哲さん:

【軽薄短小】の頃から言葉がへんになってきたように覚えている。最近やたらと【若い】ことがもてはやされている。小・中学生まで【若い】だが、違うだろ【幼い】だろと言いたくなる。商業主義なんだろうが、CFは大概若いやつで、年寄りは入れ歯かオシメのCFくらいだ。タバコCFを制限するように、若さを売りものにしたCFはやめさせようか。(おっと、表現の自由に抵触するか、、、)
カルイ、ノリ、クライ、マジ、ハマル、ヒク、ネタ、、、、なんとも嫌味な言葉の数々である。企業が広告会社にたのんで、一部馬鹿TV制作会社に作らせ、そして一部アホ芸人を通じて発せられるこのようなテロップ(字幕)つき雑音の数々。まあ、今思えばクレージーキャッツやドリフターズのワンパターン・ドタバタも、正視できるものではないが。暗いといけないのか!軽くなけりゃいけないのか!ヒクとはなんだ、言ってみろ!、、、こうしてガンコジジイになって行く。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):時代・教育・言葉  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/3/31(水) 12:03  -------------------------------------------------------------------------
   ▼海幸彦さん:

>
>【軽薄短小】の頃から言葉がへんになってきたように覚えている。最近やたらと【若い】ことがもてはやされている。小・中学生まで【若い】だが、違うだろ【幼い】だろと言いたくなる。商業主義なんだろうが、CFは大概若いやつで、年寄りは入れ歯かオシメのCFくらいだ。タバコCFを制限するように、若さを売りものにしたCFはやめさせようか。(おっと、表現の自由に抵触するか、、、)
>カルイ、ノリ、クライ、マジ、ハマル、ヒク、ネタ、、、、なんとも嫌味な言葉の数々である。企業が広告会社にたのんで、一部馬鹿TV制作会社に作らせ、そして一部アホ芸人を通じて発せられるこのようなテロップ(字幕)つき雑音の数々。まあ、今思えばクレージーキャッツやドリフターズのワンパターン・ドタバタも、正視できるものではないが。暗いといけないのか!軽くなけりゃいけないのか!ヒクとはなんだ、言ってみろ!、、、こうしてガンコジジイになって行く。

その通りですね。
時代の流れには逆らえないが、少しは抵抗しなければ。
ところが、お上(特に東京)では、これまた思いっきり先祖がえりしているのです。
国旗掲揚・国歌斉唱のとき、起立しなかったり、歌わないという理由で、200人近くの教師が戒告処分というわけです。
これでは、戦前、教育勅語を読み間違った校長が処分されたと同じようなことが全国で起きるでしょうね。

教育現場で起きたことは、10年後くらいに社会で起きるという法則を適用すれば、そのうちこの掲示板は閉鎖・主催者は逮捕・参加者は公安警察の監視下におかれるのも間近でしょう。海幸彦さんも気をつけてくださいよ。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):時代・教育・言葉  ■名前 : 海幸彦 <hrdjapan@me.scn-net.ne.jp>  ■日付 : 04/3/31(水) 12:21  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:
>▼海幸彦さん:
>:
>教育現場で起きたことは、10年後くらいに社会で起きるという法則を適用すれば、そのうちこの掲示板は閉鎖・主催者は逮捕・参加者は公安警察の監視下におかれるのも間近でしょう。海幸彦さんも気をつけてくださいよ。


流水さん
流水さんから10年間安全のお墨付きもらえるなら、望外の仕合せです。あと10年、のびのびやりましょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):時代・教育・言葉  ■名前 : Gokai Sezutomo  ■日付 : 04/3/31(水) 22:28  -------------------------------------------------------------------------
   流水様こんにちは
 仰る通り子供たちは些細な言葉に過敏に反応します。ただ、本来はそれらを肥やしにして子供たちは大人へと成長していくのだと私は考えます。
 確かに注意は必要でしょう。とはいえ言葉を投げかけることに、怯え過ぎても問題のはずです。肥やしをやらないのと同じになるからです。刺激を与えない温室育ちとも言い換えられます。
 何が現代の子供たちにとって問題かと云うとそれらの言葉を受け止め、肥やしにするだけの心の体力を付けてもらっていないことだと私は思います。
 こころの体力、他の表現の方法では生き甲斐、人生哲学、道徳ですか。これらに対して現代の教師の方々は自信のある答えを子供たちに与えられるだけの訓練を積んでいるのでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):時代・教育・言葉  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/4/1(木) 10:45  -------------------------------------------------------------------------
   ▼Gokai Sezutomoさん:
>流水様こんにちは
> 仰る通り子供たちは些細な言葉に過敏に反応します。ただ、本来はそれらを肥やしにして子供たちは大人へと成長していくのだと私は考えます。
> 確かに注意は必要でしょう。とはいえ言葉を投げかけることに、怯え過ぎても問題のはずです。肥やしをやらないのと同じになるからです。刺激を与えない温室育ちとも言い換えられます。
> 何が現代の子供たちにとって問題かと云うとそれらの言葉を受け止め、肥やしにするだけの心の体力を付けてもらっていないことだと私は思います。
> こころの体力、他の表現の方法では生き甲斐、人生哲学、道徳ですか。これらに対して現代の教師の方々は自信のある答えを子供たちに与えられるだけの訓練を積んでいるのでしょうか。

あなたのご意見に対しては、YES AND NOです。

子供たちに心の体力をつけろ、というご意見には、賛成いたします。ただ、このような言葉は、訓練で身につくものではありません。
教師の言葉は、ただ単に「伝達」の道具ではなく、自らの人間としてのトータルな表現でなければなりません。※(具体的には、団塊党さんとの「集団と個」でのやり取りを見てください。)

しかも、生徒に語る言葉は、常に自らの具体的行動によって検証されるのです。(※中学生や高校生の目は厳しい) 生半可な付け焼刃の言葉で、子供たちの心の琴線には響かないのです。
これは訓練で身につくものではなく、毎日毎日、自らの存在を常に問い直す【営み】が必要なのです。

次にあなたのおっしやる
【仰る通り子供たちは些細な言葉に過敏に反応します。ただ、本来はそれらを肥やしにして子供たちは大人へと成長していくのだと私は考えます。
> 確かに注意は必要でしょう。とはいえ言葉を投げかけることに、怯え過ぎても問題のはずです。肥やしをやらないのと同じになるからです。刺激を与えない温室育ちとも言い換えられます。】
には、異論があります。

たしかに、些細な言動で傷つく子供はいます。そんなことはたいしたことじゃない、ということで、どうしようもなく傷つく子供も存在します。【耐性」がないのです。
しかし、反論できない言葉もあるのです。【可愛い】【可愛くない】もその一つです。この【反論】できない言葉によってできた【心の傷」は、生涯残ります。

例えば、あなたに人相や骨相学を見ると称する仲間がいたとしましょうか。あなたの顔を見て、【あいつは骨相学から見て、まったく駄目な男だ】とあなたの周囲に触れ回ったとします。それによって、あなたは周囲からいつのまにか【駄目な男】の烙印を押され、孤立したとします。
この根拠のない言葉がどれだけあなたを傷つけるかを想像してみてください。この駄目な男の烙印を取り外すためにどれだけ苦労するかを想像してみてください。

高村薫の主張は、このような事を指しています。言葉とは、時に人間の生殺与奪の権を握っているのです。
あなたの主張されるような「刺激を与える」程度ですまない言葉があることを理解してもらいたいと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):時代・教育・言葉  ■名前 : Gokai Sezutomo  ■日付 : 04/4/1(木) 22:39  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:こんにちは
>▼Gokai Sezutomoさん:
>>流水様こんにちは
>> 仰る通り子供たちは些細な言葉に過敏に反応します。ただ、本来はそれらを肥やしにして子供たちは大人へと成長していくのだと私は考えます。
>> 確かに注意は必要でしょう。とはいえ言葉を投げかけることに、怯え過ぎても問題のはずです。肥やしをやらないのと同じになるからです。刺激を与えない温室育ちとも言い換えられます。
>> 何が現代の子供たちにとって問題かと云うとそれらの言葉を受け止め、肥やしにするだけの心の体力を付けてもらっていないことだと私は思います。
>> こころの体力、他の表現の方法では生き甲斐、人生哲学、道徳ですか。これらに対して現代の教師の方々は自信のある答えを子供たちに与えられるだけの訓練を積んでいるのでしょうか。
>
>あなたのご意見に対しては、YES AND NOです。
>
>子供たちに心の体力をつけろ、というご意見には、賛成いたします。ただ、このような言葉は、訓練で身につくものではありません。
>教師の言葉は、ただ単に「伝達」の道具ではなく、自らの人間としてのトータルな表現でなければなりません。※(具体的には、団塊党さんとの「集団と個」でのやり取りを見てください。)
>
 ご返信有難うございます。
ただ、私が言った「心の体力」とはあらゆるストレス因子を肥やしに変える能力という意味です。
 例えば、「お前は可愛くない」と言われてもその前に誰かから、「お前が生まれてくるのを恋焦がれておったのだ。」と言い聞かされ、そのように信じていたなら、「可愛くない」という言葉に幾分ショックはあろうとも、傷つくどころか打たれ強さ(耐性)という成長に繋がるのではないかと云うことです。
 心の体力という言葉に込めた意味は「生き甲斐、人生哲学、道徳」等の修練によって得られるものと考えます。
 戦前は誤りでも道徳教育があったようです。戦後は道徳教育が消えたかに聞いています。
 戦前とは違う正しい道徳を、まず創造することが必要ではないでしょうか。
 失礼な言い方と思いますがあえて言います。腫れ物に触るような教育方法では教師の数がいくらあっても足りることはないし、子供たちのまともな成長が危ういと考えます。
間違えあれば謝ります。ご教授くだされば幸いです。


>しかも、生徒に語る言葉は、常に自らの具体的行動によって検証されるのです。(※中学生や高校生の目は厳しい) 生半可な付け焼刃の言葉で、子供たちの心の琴線には響かないのです。
>これは訓練で身につくものではなく、毎日毎日、自らの存在を常に問い直す【営み】が必要なのです。
>
>次にあなたのおっしやる
>【仰る通り子供たちは些細な言葉に過敏に反応します。ただ、本来はそれらを肥やしにして子供たちは大人へと成長していくのだと私は考えます。
>> 確かに注意は必要でしょう。とはいえ言葉を投げかけることに、怯え過ぎても問題のはずです。肥やしをやらないのと同じになるからです。刺激を与えない温室育ちとも言い換えられます。】
>には、異論があります。
>
>たしかに、些細な言動で傷つく子供はいます。そんなことはたいしたことじゃない、ということで、どうしようもなく傷つく子供も存在します。【耐性」がないのです。
>しかし、反論できない言葉もあるのです。【可愛い】【可愛くない】もその一つです。この【反論】できない言葉によってできた【心の傷」は、生涯残ります。
>
>例えば、あなたに人相や骨相学を見ると称する仲間がいたとしましょうか。あなたの顔を見て、【あいつは骨相学から見て、まったく駄目な男だ】とあなたの周囲に触れ回ったとします。それによって、あなたは周囲からいつのまにか【駄目な男】の烙印を押され、孤立したとします。
>この根拠のない言葉がどれだけあなたを傷つけるかを想像してみてください。この駄目な男の烙印を取り外すためにどれだけ苦労するかを想像してみてください。
>
>高村薫の主張は、このような事を指しています。言葉とは、時に人間の生殺与奪の権を握っているのです。
>あなたの主張されるような「刺激を与える」程度ですまない言葉があることを理解してもらいたいと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):時代・教育・言葉  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/4/1(木) 23:22  -------------------------------------------------------------------------
   ▼Gokai Sezutomoさん:
> 戦前は誤りでも道徳教育があったようです。戦後は道徳教育が消えたかに聞いています。

この認識は、改めてもらう必要がありますね。道徳教育は、もう30年以上行われています。現在は、【心の教育】などとも言っています。

道徳教育がないから、子供たちの問題があるという認識をもう一度検証してみる必要があります。

道徳教育とか親の教えが、力を持っのはどのような時でしょうか。自分の子供時代などを考えれば、次のことがいえると思います。
【親や教師の教え】が力を持つのは、教えが正しいということではなく、親や教師の後ろにある世間の考え方が多数派であるというところにあるのです。
つまり、子供は【親や教師】という窓を通して、世間という外の世界を見ているのです。
親や教師の言うことが力を持つのは、世間の代表であるということが子供たちに実感できたときです。

ところが、戦後の子供たちには親や教師だけが、世間への窓ではなくなってきたのです。TVもあれば、雑誌もあれば、インターネットもあります。親や教師などの知らない世間への窓を子供たちは持っているのです。
戦前から戦後昭和40年くらいまでは、親や教師の背後には、「世間」というものが厳然と存在していたのですが、高度成長期以降はこの世間の姿が見えなくなってきたのです。

これが、道徳教育を行っても簡単に子供たちがよくならない最大の原因です。あなたのおっしゃることは多くの人の主張と同じですし、よく理解できますが、現場の立場からいえば、それは無理だというのが本音でしょう。
つまり、親や教師の背後にある世間の常識というものが消えているのに、昔のように教師の教えが力を持つことはできないのです。
それは、教師の力量が足りないのではなく、原理的にできないのです。

ではどうするか。わたしの方法論は、子供たちに【擬似共同体】を形成させ、その中で日本人が持っていた【世間】を作らせることから始まります。そうすることにより、自分の考え方・行動などが、共同体に与える影響、責任とは何か、権利とは何か、義務とは何か、もめごとを解決するためのスキルとは何かなどを、体験させ、その中で自分自身を検証させ、自分を変容させることによって身に付くと考えていますし、そのように実践してきました。

上からの道徳教育で子供が変わるという風に考えるということは、子供を粘土細工と考えている子供観です。つまり、上からの都合でどのようにでも変えられると考えているのです。
わたしは、そうは考えていないのです。子供が変わるのは、子供自身であり、そのような条件をつくるのが、教師の役目だと考えているのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):時代・教育・言葉  ■名前 : Gokai Sezutomo  ■日付 : 04/4/2(金) 1:09  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:貴方の誠実な態度に感謝します。
>▼Gokai Sezutomoさん:
>> 戦前は誤りでも道徳教育があったようです。戦後は道徳教育が消えたかに聞いています。
>
>この認識は、改めてもらう必要がありますね。道徳教育は、もう30年以上行われています。現在は、【心の教育】などとも言っています。
>
 ではどのような道徳教育が行われてきたのでしょう。目次のようなものでも結構です。お教えください。そして大切なこと、道徳教育にはまず礎となる善悪の判断基準が必要です。それについてはどういった取り組みをしてきたのでしょう。理念だけでも結構です。
 また私が道徳教育が必要といったのはこころの体力の問題からです。いろいろなストレス因子に対して耐性を作ることができる子供の心の体力への心配からでした。
 戦前の道徳教育はイデオロギーだけではなく、全人類にとっても誤りの理念でしょう。しかし、心の基礎的な成長(自己破壊しない)という意味においてはある程度の力を発揮していたと見ることもできます。
 私はそういった力に代わる何かが子供たちに必要と考えます。
>道徳教育がないから、子供たちの問題があるという認識をもう一度検証してみる必要があります。
>
>道徳教育とか親の教えが、力を持っのはどのような時でしょうか。自分の子供時代などを考えれば、次のことがいえると思います。
>【親や教師の教え】が力を持つのは、教えが正しいということではなく、親や教師の後ろにある世間の考え方が多数派であるというところにあるのです。
>つまり、子供は【親や教師】という窓を通して、世間という外の世界を見ているのです。
>親や教師の言うことが力を持つのは、世間の代表であるということが子供たちに実感できたときです。
>
 つまり、多数派に従うということなのでしょうか?
 私は違うと思います。多数派であるよりも納得できることに従ってきたのです。
つまり正しいと思うことです。長いものに巻かれろでは道徳教育など無いに等しいと思います。
 ごめんなさい。また言い過ぎたかもしれませんし私が間違っているかもしれませんので一旦、ここで閉めます。ご教授お願いします。
>ところが、戦後の子供たちには親や教師だけが、世間への窓ではなくなってきたのです。TVもあれば、雑誌もあれば、インターネットもあります。親や教師などの知らない世間への窓を子供たちは持っているのです。
>戦前から戦後昭和40年くらいまでは、親や教師の背後には、「世間」というものが厳然と存在していたのですが、高度成長期以降はこの世間の姿が見えなくなってきたのです。
>
>これが、道徳教育を行っても簡単に子供たちがよくならない最大の原因です。あなたのおっしゃることは多くの人の主張と同じですし、よく理解できますが、現場の立場からいえば、それは無理だというのが本音でしょう。
>つまり、親や教師の背後にある世間の常識というものが消えているのに、昔のように教師の教えが力を持つことはできないのです。
>それは、教師の力量が足りないのではなく、原理的にできないのです。
>
>ではどうするか。わたしの方法論は、子供たちに【擬似共同体】を形成させ、その中で日本人が持っていた【世間】を作らせることから始まります。そうすることにより、自分の考え方・行動などが、共同体に与える影響、責任とは何か、権利とは何か、義務とは何か、もめごとを解決するためのスキルとは何かなどを、体験させ、その中で自分自身を検証させ、自分を変容させることによって身に付くと考えていますし、そのように実践してきました。
>
>上からの道徳教育で子供が変わるという風に考えるということは、子供を粘土細工と考えている子供観です。つまり、上からの都合でどのようにでも変えられると考えているのです。
>わたしは、そうは考えていないのです。子供が変わるのは、子供自身であり、そのような条件をつくるのが、教師の役目だと考えているのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):時代・教育・言葉  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/4/2(金) 9:20  -------------------------------------------------------------------------
   ▼Gokai Sezutomoさん:

おたずねの道徳教育の目標です。この目標に基づいて、さまざまな読本などを用いて授業がなされています。
1、主として自分自身に関すること

(1) 望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。

(2) より高い目標を目指し,希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志をもつ。

(3) 自律の精神を重んじ,自主的に考え,誠実に実行してその結果に責任をもつ。

(4) 真理を愛し,真実を求め,理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく。

(5) 自己を見つめ,自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方を追求する。

2 主として他の人とのかかわりに関すること。

(1) 礼儀の意義を理解し,時と場に応じた適切な言動をとる。

(2) 温かい人間愛の精神を深め,他の人々に対し感謝と思いやりの心をもつ。

(3) 友情の尊さを理解して心から信頼できる友達をもち,互いに励まし合い,高め合う。

(4) 男女は,互いに異性についての正しい理解を深め,相手の人格を尊重する。

(5) それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解して,謙虚に他に学ぶ広い心をもつ。

3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。

(1) 自然を愛護し,美しいものに感動する豊かな心をもち,人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める。

(2) 生命の尊さを理解し,かけがえのない自他の生命を尊重する。

(3) 人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて,人間として生きることに喜びを見いだすように努める。

4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。

(1) 自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める。

(2) 法やきまりの意義を理解し,遵守するとともに,自他の権利を重んじ義務を確実に果たして,社会の秩序と規律を高めるように努める。

(3) 公徳心及び社会連帯の自覚を高め,よりよい社会の実現に努める。

(4) 正義を重んじ,だれに対しても公正,公平にし,差別や偏見のない社会の実現に努める。

(5) 勤労の尊さや意義を理解し,奉仕の精神をもって,公共の福祉と社会の発展に努める。

(6) 父母,祖父母に敬愛の念を深め,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築く。

(7) 学級や学校の一員としての自覚をもち,教師や学校の人々に敬愛の念を深め,協力してよりよい校風を樹立する。

(8) 地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬と感謝の念を深め,郷土の発展に努める。

(9) 日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する。

(10) 世界の中の日本人としての自覚をもち,国際的視野に立って,世界の平和と人類の幸福に貢献する。

>> 私はそういった力に代わる何かが子供たちに必要と考えます。

わたしの方法論は、きちんと提示しているはずです。もう一度前の文章をお読みください。

> つまり、多数派に従うということなのでしょうか?
> 私は違うと思います。多数派であるよりも納得できることに従ってきたのです。
>つまり正しいと思うことです。長いものに巻かれろでは道徳教育など無いに等しいと思います。

わたしのいっていることは、正しい正しくないの問題ではないのです。戦前から戦後の一時期までは、親や教師のいっていることが社会の鏡になりえた、ということを指摘しているのです。
その基盤が崩壊したころから、親・教師の言っていることが社会の鏡になりにくくなった事実を指摘しているのです。
長いものに巻かれろなどと誰も主張もしていないのですよ。

戦後、戦前の反省の上にたって、様々な価値観が提示されてきたのですが、それが社会の共通の価値観としてなかなか定着しなかったのは何故か、を考えなければ、あなたのいう道徳教育などは、ただの念仏にしかならないと考えているのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(7):時代・教育・言葉  ■名前 : Gokai Sezutomo  ■日付 : 04/4/2(金) 22:47  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:こんにちは、確かに道徳教育が無いなどという認識は変えなければなりません。
>
>おたずねの道徳教育の目標です。この目標に基づいて、さまざまな読本などを用いて授業がなされています。
>1、主として自分自身に関すること
>
>(1) 望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。
>
>(2) より高い目標を目指し,希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志をもつ。
>
>(3) 自律の精神を重んじ,自主的に考え,誠実に実行してその結果に責任をもつ。
>
>(4) 真理を愛し,真実を求め,理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく。
>
>(5) 自己を見つめ,自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方を追求する。
>
>2 主として他の人とのかかわりに関すること。
>
>(1) 礼儀の意義を理解し,時と場に応じた適切な言動をとる。
>
>(2) 温かい人間愛の精神を深め,他の人々に対し感謝と思いやりの心をもつ。
>
>(3) 友情の尊さを理解して心から信頼できる友達をもち,互いに励まし合い,高め合う。
>
>(4) 男女は,互いに異性についての正しい理解を深め,相手の人格を尊重する。
>
>(5) それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解して,謙虚に他に学ぶ広い心をもつ。
>
>3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
>
>(1) 自然を愛護し,美しいものに感動する豊かな心をもち,人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める。
>
>(2) 生命の尊さを理解し,かけがえのない自他の生命を尊重する。
>
>(3) 人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて,人間として生きることに喜びを見いだすように努める。
>
>4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
>
>(1) 自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める。
>
>(2) 法やきまりの意義を理解し,遵守するとともに,自他の権利を重んじ義務を確実に果たして,社会の秩序と規律を高めるように努める。
>
>(3) 公徳心及び社会連帯の自覚を高め,よりよい社会の実現に努める。
>
>(4) 正義を重んじ,だれに対しても公正,公平にし,差別や偏見のない社会の実現に努める。
>
>(5) 勤労の尊さや意義を理解し,奉仕の精神をもって,公共の福祉と社会の発展に努める。
>
>(6) 父母,祖父母に敬愛の念を深め,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築く。
>
>(7) 学級や学校の一員としての自覚をもち,教師や学校の人々に敬愛の念を深め,協力してよりよい校風を樹立する。
>
>(8) 地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬と感謝の念を深め,郷土の発展に努める。
>
>(9) 日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する。
>
>(10) 世界の中の日本人としての自覚をもち,国際的視野に立って,世界の平和と人類の幸福に貢献する。
>
>>> 私はそういった力に代わる何かが子供たちに必要と考えます。
>
>わたしの方法論は、きちんと提示しているはずです。もう一度前の文章をお読みください。
 「擬似共同体」のことですね。確かに工夫された方法で子供たちも興味を持つことでしょう。・・それは貴方だけ或いは限られた先生方の方法で一般的にはどうなのでしょうか?また、耐性の無い子供たちへの効果はどうなのでしょうか。心の体力は付くのでしょうか。


>> つまり、多数派に従うということなのでしょうか?
>> 私は違うと思います。多数派であるよりも納得できることに従ってきたのです。
>>つまり正しいと思うことです。長いものに巻かれろでは道徳教育など無いに等しいと思います。
>
>わたしのいっていることは、正しい正しくないの問題ではないのです。戦前から戦後の一時期までは、親や教師のいっていることが社会の鏡になりえた、ということを指摘しているのです。
>その基盤が崩壊したころから、親・教師の言っていることが社会の鏡になりにくくなった事実を指摘しているのです。
>長いものに巻かれろなどと誰も主張もしていないのですよ。

 私も貴方がそのような方でないことを知り安心しました。けれども子供たちが親や先生の意見よりも社会の多数派にしたがうのを見て貴方はどのような対応をとられるのでしょう。この点に関してはやはり疑問です。
 よく世間は、現代の大人は自信が無いのだといいます。子供たちに指導すべき言葉や哲学を持たないのだと。
それ故、子供に向かって「お前は可愛くない」などという大人は論外としても、些細な言葉に傷つく子供がいて、言葉を投げかけるのを恐れる大人しかいない構図が
世間の評と重複して見えてしまいました。
 高村薫という方の繊細な感性には確かに考えさせられるものがあります。しかしその批評は受動の感性によるものではないでしょうか?
 私は子供の成長にはもっと能動的感性も必要と考えます。それゆえ心の体力という言葉になったのだろうと思います。
>
>戦後、戦前の反省の上にたって、様々な価値観が提示されてきたのですが、それが社会の共通の価値観としてなかなか定着しなかったのは何故か、を考えなければ、あなたのいう道徳教育などは、ただの念仏にしかならないと考えているのです。
 私のいう道徳教育とは何のことでしょう?
心の体力をつけるのに、「生き甲斐、人生哲学、道徳」などの修練により得られる。・・と書きましたが、このことを私の道徳教育そして、ただの念仏と仰っておられるのですか?それならば、私は決してただの念仏とは思っていません。
 それよりも、伺いたいことがあります。戦前の反省の上にたっての様々な価値観のことです。どのような価値観の提示があったのでしょうか。代表的なもの2,3例で結構ですお教えください。またそれが定着しなかった理由は何故でしょう。貴方のお考えをお示しください。そして、定まらぬ価値観があっても、貴方のご教示くださった「道徳教育の目標」は子供たちにとって有効(念仏以上)だったのでしょうか?

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(8):時代・教育・言葉  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/4/2(金) 23:49  -------------------------------------------------------------------------
   ▼Gokai Sezutomoさん:
>>
> 私も貴方がそのような方でないことを知り安心しました。けれども子供たちが親や先生の意見よりも社会の多数派にしたがうのを見て貴方はどのような対応をとられるのでしょう。この点に関してはやはり疑問です。

どうもあなたのやり方は、わたしを試しているみたいであまり感じがよくないですね。
道徳教育の目標を書くだけでも結構な時間を費やしています。それを道徳教育をやっていたことを認めるだけでは、何のために丁寧に答えているのか、あまり気持ちよくないですね。

そこで、今度はわたしからの質問です。上記の疑問に大してあなたならどうしますか。あなたは過去にどんなことをしましたか。子供たちが世間の影響に染まるのを防ぐ手立てを講じましたか。

なぜ、そうたずねるかというと、この種の問題は、学校の教育だけでどうにかなるものではないのです。学校も社会もすべて等価な責任があります。そこのところを抜きにした論議は、あまりフェアーではありません。

あなたの論は、そこのところが明確でないのです。何度もいいますが、学校・教師のいうことで、人間が変わるなどそれこそ稀有の例です。

そうではなくて、教師の提示したものの見方、考え方などを咀嚼して子供が自分で自分を変えるのです。

それを前提にしてわたしの方法論を語りましょう。具体的に語ったほうが分かりやすいので、少々長くなりますが、ご勘弁を。

わたしは、よく授業中子供同士顔を見合わせることをしました。そしてこうたずねます。「後ろの人の顔がお前と同じだったらどうだ」と。多くの子は【気持ち悪い】と答えます。
ここがすべての出発点になります。「同じ顔だったら気持ち悪い」という感情は、自分が他の誰とも違う独立した個性の持ち主であることを自覚していることです。

まず自分が他の誰にも代えられないかけがえのない存在である、ということを認識させることが、重要なのです。【個性】とは何かを自覚しなければ、本当の意味で他者を大切にする発想などは生まれません。
次に重要なのは、個性を表現する方法を育てることです。そして、クラスの中で個性のぶつかり合いを体験させることなのです。
そこから、お互いにかけがえのない自分であるのだから、相手もかけがえのない自分であることを認識させることができます。
そこから、本当の意味での【話し合い活動】が生まれます。そうすることにより、簡単に多数派につくことの危さも理解できるのです。

もう一つは、メデイアレテラシーも重要なポイントになります。わたしは社会教師でしたので、3年生になったら毎日、新聞を持ってこさせ、ありとあらゆる質問をさせました。同時に新聞記事の足りない部分を調べさせることも行いました。
また、デベート授業も積極的に行っていました。他にもいろいろ行いましたが、長くなるので省略します。

>心の体力をつけるのに、「生き甲斐、人生哲学、道徳」などの修練により得られる。・・と書きましたが、このことを私の道徳教育そして、ただの念仏と仰っておられるのですか?それならば、私は決してただの念仏とは思っていません。

文意をまげて解釈されては困りますね。わたしは、親・教師が社会の鏡であった時代が過ぎ去ったことの意味を考えなければ、あなたのいわれるようなことは難しいといっているのですよ。


それよりも、伺いたいことがあります。戦前の反省の上にたっての様々な価値観のことです。どのような価値観の提示があったのでしょうか。代表的なもの2,3例で結構ですお教えください。またそれが定着しなかった理由は何故でしょう。貴方のお考えをお示しください。そして、定まらぬ価値観があっても、貴方のご教示くださった「道徳教育の目標」は子供たちにとって有効(念仏以上)だったのでしょう
か?

民主主義・自由・個性の尊重人権の尊重などなどでしょう。
定着しなかった理由は、一口に述べるのは難しいですね。これには、常にイデオロギー的立場付きまといますから。
文部省の道徳教育の目標については、有効であったとは考えていません。それから、どうもあなたはわたしが文部省の代弁者のように誤読しておられるようですが、わたしは文部省とは違う立場です。
あなたが、道徳教育の目標を書けとおっしゃるから説明しただけですので誤解しないようにしてください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):時代・教育・言葉  ■名前 : Gokai Sezutomo  ■日付 : 04/4/3(土) 0:28  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:こんばんは
>▼Gokai Sezutomoさん:
>>>
>> 私も貴方がそのような方でないことを知り安心しました。けれども子供たちが親や先生の意見よりも社会の多数派にしたがうのを見て貴方はどのような対応をとられるのでしょう。この点に関してはやはり疑問です。
>
>どうもあなたのやり方は、わたしを試しているみたいであまり感じがよくないですね。
>道徳教育の目標を書くだけでも結構な時間を費やしています。それを道徳教育をやっていたことを認めるだけでは、何のために丁寧に答えているのか、あまり気持ちよくないですね。
 それは誤解です。実際のところ私の子供たちや私のところの若いスタッフたちに尋ねて要領の得ないところ答えていただきました。感謝しております。ただ、試しているのかと言われればイエスノーです。私は貴方の言葉の断定を疑うと同時に言葉を信じてその根拠を尋ねたに過ぎません。違う意見を持つもの同士の会話なのですから致し方の無いことだと思うのですが如何ですか?
それと最後に「念仏」という貴方の言葉を繰り返したのは「私のいう道徳教育」という部分で私の考えを否定した一方で、学校での道徳教育の目標はこうですよやっていますよ!といわれるところに態度の矛盾を感じたことを付け加えます。
 まことに勝手ですが、本日はノータイムとなりました。ご質問には後日ということで失礼させていただきます。
>
>そこで、今度はわたしからの質問です。上記の疑問に大してあなたならどうしますか。あなたは過去にどんなことをしましたか。子供たちが世間の影響に染まるのを防ぐ手立てを講じましたか。
>
>なぜ、そうたずねるかというと、この種の問題は、学校の教育だけでどうにかなるものではないのです。学校も社会もすべて等価な責任があります。そこのところを抜きにした論議は、あまりフェアーではありません。
>
>あなたの論は、そこのところが明確でないのです。何度もいいますが、学校・教師のいうことで、人間が変わるなどそれこそ稀有の例です。
>
>そうではなくて、教師の提示したものの見方、考え方などを咀嚼して子供が自分で自分を変えるのです。
>
>それを前提にしてわたしの方法論を語りましょう。具体的に語ったほうが分かりやすいので、少々長くなりますが、ご勘弁を。
>
>わたしは、よく授業中子供同士顔を見合わせることをしました。そしてこうたずねます。「後ろの人の顔がお前と同じだったらどうだ」と。多くの子は【気持ち悪い】と答えます。
>ここがすべての出発点になります。「同じ顔だったら気持ち悪い」という感情は、自分が他の誰とも違う独立した個性の持ち主であることを自覚していることです。
>
>まず自分が他の誰にも代えられないかけがえのない存在である、ということを認識させることが、重要なのです。【個性】とは何かを自覚しなければ、本当の意味で他者を大切にする発想などは生まれません。
>次に重要なのは、個性を表現する方法を育てることです。そして、クラスの中で個性のぶつかり合いを体験させることなのです。
>そこから、お互いにかけがえのない自分であるのだから、相手もかけがえのない自分であることを認識させることができます。
>そこから、本当の意味での【話し合い活動】が生まれます。そうすることにより、簡単に多数派につくことの危さも理解できるのです。
>
>もう一つは、メデイアレテラシーも重要なポイントになります。わたしは社会教師でしたので、3年生になったら毎日、新聞を持ってこさせ、ありとあらゆる質問をさせました。同時に新聞記事の足りない部分を調べさせることも行いました。
>また、デベート授業も積極的に行っていました。他にもいろいろ行いましたが、長くなるので省略します。
>
>>心の体力をつけるのに、「生き甲斐、人生哲学、道徳」などの修練により得られる。・・と書きましたが、このことを私の道徳教育そして、ただの念仏と仰っておられるのですか?それならば、私は決してただの念仏とは思っていません。
>
>文意をまげて解釈されては困りますね。わたしは、親・教師が社会の鏡であった時代が過ぎ去ったことの意味を考えなければ、あなたのいわれるようなことは難しいといっているのですよ。
>
>
>それよりも、伺いたいことがあります。戦前の反省の上にたっての様々な価値観のことです。どのような価値観の提示があったのでしょうか。代表的なもの2,3例で結構ですお教えください。またそれが定着しなかった理由は何故でしょう。貴方のお考えをお示しください。そして、定まらぬ価値観があっても、貴方のご教示くださった「道徳教育の目標」は子供たちにとって有効(念仏以上)だったのでしょう
>か?
>
>民主主義・自由・個性の尊重人権の尊重などなどでしょう。
>定着しなかった理由は、一口に述べるのは難しいですね。これには、常にイデオロギー的立場付きまといますから。
>文部省の道徳教育の目標については、有効であったとは考えていません。それから、どうもあなたはわたしが文部省の代弁者のように誤読しておられるようですが、わたしは文部省とは違う立場です。
>あなたが、道徳教育の目標を書けとおっしゃるから説明しただけですので誤解しないようにしてください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(9):時代・教育・言葉  ■名前 : Gokai Sezutomo  ■日付 : 04/4/3(土) 22:31  -------------------------------------------------------------------------
   流水さま:こんにちは
 流水さんがおっしゃっている「私の道徳」「私の論」について過去の発言を何度も読み返しましたが私が主張したことは「心の体力」についてだけだと思うのですが?実行が難しいも何も、他には論じていないのですから。
 私は貴方の論を批評したことはありますが「心の体力」に関する以外に、私が私自身の論を提示したとは思えないのです。
また、私が貴方の文章を曲解しているとしたら、それはわざとじゃないことは確かです。
 それから、ご要望ですので、私が私の子供たちに教えたことを稚拙かもしれませんが二つだけ披露させて頂きます。
*事実をよく見つめ、真実に従いなさい。それが全ての人に共通するルールです。
*お前たちの人生の半分はお前たちのものだが残りの半分は親と先祖のものだということを忘れずに信用を大切にしなさい。
 でした。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(10):時代・教育・言葉  ■名前 : 流水  ■日付 : 04/4/4(日) 14:44  -------------------------------------------------------------------------
   ▼Gokai Sezutomoさん:
>流水さま:こんにちは
> 流水さんがおっしゃっている「私の道徳」「私の論」について過去の発言を何度も読み返しましたが私が主張したことは「心の体力」についてだけだと思うのですが?実行が難しいも何も、他には論じていないのですから。

どうも話が噛み合っていないようですので、もう一度整理しておきます。

1、あなたの言われる【心の体力】をつけるという主張に、わたしは同意しています。まず、これが大前提です。
2、あなたの論旨では、戦前は道徳教育があったが、戦後はどうなのか。とい問いに対して、わたしは戦後も道徳教育はあると答えました。
3、あなたは、それなら道徳教育の内容を書いて欲しいといわれるので、わたしはそれを書きました。
4、次に、わたしは道徳教育をすれば、子供の問題が簡単に解決するという発想は、間違いであると考えていることを、自分の方法論を提示して説明しました。
5、4の文脈で、あなたのいわれる【心の体力】をつけるためには、単に道徳教育をすれば解決する問題でないことを説明しました。
6、あなたは、それでも納得されずに、自説を展開されたので、それならあなたの方法論を書いてみてくださいとお願いしたのです。

※わたしが書いた文部省が提示した道徳教育の目標を読んでいただけば分かるのですが、書かれている価値観はかなり立派な内容です。
多くの教師は、それをきちんと教えています。しかも、専門教科でないので、教師全員が研究できるので、教授方法をかなり工夫されています。

それでも、簡単に子供は変容しません。その理由については、説明したとおりです。
つまり、【価値観】を押し付けても、身につくものではないのです。子供は子供なりの価値観を持って生きているのです。その価値観は学校だけで形成されるものではなく、家庭・社会など様々なものから形成されるのです。わたしが、学校と社会は等価(同じ責任がある)と主張するのは、その意味です。

わたしがあなたの書かれているものに違和感を抱いたのは、あなたの主張に【自分を圏外】に置いた主張に読めたからです。

あなたの主張は主張として認めますが、それを実践するためには、様々な工夫が必要です。【心の体力】はあなたの言葉ですが、専門的に言えば【耐性】をどのように育てるかということになります。
わたしは現在現役ではありませんが、20年以上前からそのことについて実践もし、研究もしてきました。(※団塊党さんとのやり取り、集団と個をお読みください)教師は毎日子供に接しているのです。あなたのおっしゃることは、誰よりも肌で感じ、悩んでいるのです。マスコミでは例外的な教師を全てのように報道しますが、大多数の教師は日々どう子供を育てようか悩んでいるのです。

それでも、簡単に子供は変容しないのが現実です。わたしは、教育を語るということは、自分を圏外に置いた発想では、何も解決しないと考えているので、あなたの論に感じた違和感を書かせてもらったのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):時代・教育・言葉  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 04/4/8(木) 5:42  -------------------------------------------------------------------------
   ▼流水さん:

>先日、当時の教え子4人が尋ねてきて、この「学級通信」について感想を述べてくれた。「当時先生は馬鹿ではないかと思った」と正直な気持ちを言ってた。「今はどうだ」と尋ねると、「よく分かる」と言ってくれた。
>ここ数年の不況が、子供たちを【内省的】にさせていたのだと思う。同時に、太宰の逆説「希望を求めるからこそ、暗い時代が信用できる」という思いもきちんと理解していた。
>【明るい時代】の人間のモラル・ハザードもよく理解していた。
>

物質的豊かさが人間を軽薄にするとしたら、豊かさとはいったい何なのか。考えてしまいます。

>確かに、時代が人を変え、言葉を変え、教育を変える。テレビで教師が笑いを学ぶ姿が放映されていたが、教師の授業維持の努力が透けて見え身につまされた。
>言葉についての論争も盛んだが、高村薫氏の手法は大変参考になる。日常のさりげない言葉を真剣に考える事により、時代の底流に錘を下ろす手法は、言葉によって自らの存在を主張する以外にない教師にとっては最上の参考書ではないかと思う。

「言葉によって自らの存在を主張する以外にない教師」である私は心に届く言葉を求めて日々奮闘していますが、無力感を感じること多いです。
自らの言葉を率直に語る、惜しみ抜いて語る、しかし雄弁に演出的に語る。時には気軽に楽しんで語る、時には思いをたたきつけるように語る。時には原稿を書いてみる。時にはテープに録音してみる。このように色々な試みをしてみようと思います。
 
>彼女のいう[「可愛い」「可愛くない」と言う言葉は、決して子供たちに使ってはならない]は優れて「人間的」感性である。[子供]の傷つきやすい感性を本当に理解している人の言葉である。
>【言葉】とは、これくらい優れて人の心を包み、暖かさを伝えるが、同時に詩人が歌ったように「俺の言葉は熊の皮のように 人の心を傷つける」(吉本隆明・固有時の対話)ものである。
> 
>教師にとって【言葉】とは何かの論議は、この時代だからこそ大切であり、日常の言葉に万感の想いを乗せる「新しい言葉使い」のあり方を真剣に模索する必要があると思う。

「日常の言葉に万感の思いを乗せる新しい言葉遣い」。重い課題ですが、しっかり受け止めたいと思います。

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