Page 531 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼メディアの公正な報道は重要 一主婦 04/5/19(水) 16:37 ┗Re(1):言葉のお守り的使用と沈黙の螺旋構造 流水 04/5/19(水) 16:58 ─────────────────────────────────────── ■題名 : メディアの公正な報道は重要 ■名前 : 一主婦 ■日付 : 04/5/19(水) 16:37 -------------------------------------------------------------------------
ドイツのノエル=ノイマンという学者が唱えたもので、「沈黙の螺旋」という言葉がある。 これは「自分の考えが社会の中で少数派であると思った人は、自分の意見を人前で言うことに消極的になる」という考えである。社会の中で孤立したくないと考える人ほど、社会の中の多数派と異なる自分の主張を隠す傾向がある。その結果、少数意見はますます影を潜めることになり、多数意見が実態以上に大きく見えてくることになる。 このため、メディアの果たす役割は重要になる。なぜなら、メディアによって「ある意見」ばかりが報じられれば、そのうちに、それが社会の多数派によって支持されているものと思われて、その「ある意見」と異なる意見を持つ人は声を潜めることになるからである。 この沈黙の螺旋は、今の「憲法論議」「支持率論議」にも当てはまるのではないか。例えば「憲法改正に六割が賛成...」と報道されれば「自分は護憲だ...」とは堂々と言いにくい雰囲気になる。支持率についても同じではないだろうか。メディアの公正な報道は重要であると思う。 2〜3関連のありそうなものです。 http://www.edogawa-u.ac.jp/~aitikawa/commu/mass10.html http://www.hibun.tsukuba.ac.jp/reports/silnt-yj.htm http://www.socius.jp/info/clinical04.html |
戦後、鶴見俊輔氏が思想の科学に発表した論文の中で指摘した【言葉のお守り的使用】の問題点は、50年以上たった今でも有効である。 彼によれば、日本人は常に言葉の【美しさ】に惑わされつづけた。 戦前の『八紘一宇』・『皇国の大義』から始まって『撃ちてし止まん』『皇国の母』『欲しがりません勝つまでは』等に至るまで、戦争の醜さ・汚さ・むごさ等のマイナス・イメージを忘れ去られるような美しい言葉の羅列に惑わされつづけた。 戦後日本もこの体質から無縁ではなかった。自由、平等、民主主義、平和などは、戦後の日本人の大切な言葉である。 右・左を問わず、この言葉には抵抗できない。現在ではリストラ、自己責任、個性の尊重、などの言葉には、少々疑問を感じても抵抗できない。 鶴見俊輔氏は、このような日本人特有の言語の使用傾向を言葉のお守り的使用と名づけたのである。 その言葉を使用すれば、自らの正当性が検証なしに証明できる、つまり常に自分を正当性の側に置くお守り的役割を果たしているのである。 9/11以降、アメリカ国民あげての「愛国心」の大合唱を見ていれば、あの雰囲気の中でそのことに疑義をさしはさむことの難しさは納得できると思う。 まさに【沈黙の螺旋構造】の典型である。 9/11以降のアメリカに戦前の日本を重ねてみている人も多いと思う。 しかし、アメリカ人以上に日本人のこの傾向は、殆ど骨がらみの体質ではないかと思われるほど浸透している。 この言葉を使用すれば、自らの正当性を検証なしに保証できるならば、こんなに便利な事はない。それに、常に多数派に身を置く事が大切であるという「生きる知恵」が加わり、日本人独特の村社会的とか島国的と呼ばれる体質が形成されたのである。日本社会では、不祥事を起こすたびに【世間様に謝る】という儀式が行われる。この【世間】という実態のない何かが日本人の行動を規制しているのである。 だから、日本社会では異端は常に排除される運命にある。 異端とは、個性的であると言う事と殆ど同義であるが、このような体質の人間はこの国では大変生きにくく出来ている。 人質事件の3人が徹底的にバッシングされたのは、世論操作もあるが、この【世間様】の常識に反したからである。 日本社会では、ノイマンのいう【沈黙の螺旋構造】が骨がらみになっているのである。 田中真紀子、鈴木宗男、加藤紘一、辻元清美、菅直人と続いた国会劇場でのキーワードも「うそつき」「責任」「辞職」である。集中豪雨のような非難の嵐が、「異端」とされたこれらの人にあびぜられ、その中で如何に対処するかが政治家として生き抜けるかどうかの別れ道になる。 もともとの日本人的体質の上に情報化社会がさらに拍車をかけているのである。 しかし、「情報化社会」の浸透と「国際化の進展」は、「美しい言葉」の虚妄性を明らかにしてしまうというメカニズムも内包している。 ソ連邦に代表される東欧社会主義圏の崩壊・欧米諸国や世界の国々の内情や日本国内での外国人の増加は、日本人に新しい形の【ナショナリズム】を呼び起こしつつある。これは日本だけでなく、世界的な傾向である。 東西冷戦の終焉は、アメリカの覇権を確定し、英米流のグローバリズムの浸透は、新たな貧困問題を引き起こしている。 曰く【自虐史観】【サヨ嫌い】【反中国】【反朝鮮】など、競争社会に渦巻いている不満が、いびつな形で噴出したものである。 彼らの言説は、ある程度の正当性がある故に、現在力を持っているように見えるが、私から言わせれば日本の伝統的体質の【言葉のお守り的使用】に依拠している為、いずれ消え去る運命にあると思う。 その事は、彼らの相手に投げつける言葉を仔細に検証すればその事はすぐ分かる。 「戦後民主主義は虚妄である」とか「朝日新聞的左翼マスコミ」とか「国益優先の思想」とか戦後的価値観に全て[異議申立て]をしているのである。 その事の正当性を証明する為、相手にレッテルを貼りつけて排除する手法をとる。言葉の『ラベリング効果』に依拠した手法である。 小泉首相の言葉が典型であるが、問題に正面から答えず、【詭弁】【レッテル貼り】【居直り】【知的な言葉を使わず、平易な言葉で問題を摩り替える】などという手法で、自己正当化を行う。 この手法は、戦前の『赤攻撃』と同じである。 忘れてならないのは、論理的正当性によらずに『左翼的=悪』という図式で排除すると言う心性は、戦後日本が最も嫌った手法であると言う事である。 人を『偏見』『色眼鏡』で見て、排除するという心性は、【差別思想】そのものであると言う事をもう一度思い出す必要がある。 少なくとも、戦後民主主義の原点、政治信条の自由とか相手の言い分をよく聞き論理によって相手を論破するとかいう基本的姿勢を崩してはいない。 勿論、進歩派陣営も【言葉のお守り的使用】から脱却していない。「保守反動」とか「労働者の権利」とか、【言葉】により自らの正当性を主張してきたのは同じである。 しかし、「新しいナショナリスト」も現在では色あせて見えるのは、少しずつ日本人の体質が変わってきているからだろうと思う。 つまり、【言葉の美しさ】の裏にひそむ現実に人々が気がつき始めたのである。 平成大不況が、この認識を加速させたと言って良い。 戦後初めて日本人(大衆)が、自分の言葉で語り始めたのである。 私は、この事に期待したいと思う。自分の言葉・自分の感性を大切にする大衆の出現は、新しい時代に希望を抱かせる。 |