Page 26 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/3/26(土) 19:22 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 佐藤 圭 05/3/27(日) 19:29 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/3/29(火) 17:46 ┃ ┗Re(2):戦争体験を語って下さい3 珠 05/4/9(土) 0:22 ┃ ┣Re(3):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/10(日) 13:58 ┃ ┗Re(3):戦争体験を語って下さい3 佐藤 圭 05/4/13(水) 12:13 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/3/31(木) 8:15 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/2(土) 13:26 ┣[管理者削除] ┃ ┣移動しました 管理スタッフ 05/4/2(土) 23:54 ┃ ┗Re(2):国連の地雷撲滅CM知ってますか? ごまめの翁 05/4/3(日) 17:57 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/5(火) 7:22 ┃ ┗Re(2):戦争体験を語って下さい3 佐藤 圭 05/4/5(火) 22:27 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/7(木) 17:59 ┃ ┣Re(2):戦争体験を語って下さい3 佐藤 圭 05/4/7(木) 22:57 ┃ ┗Re(2):戦争体験を語って下さい3 秋明菊 05/4/8(金) 8:13 ┃ ┗Re(3):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/8(金) 10:39 ┃ ┗Re(4):戦争体験を語って下さい3 秋明菊 05/4/8(金) 15:51 ┃ ┗Re(5):戦争体験を語って下さい3 佐藤 圭 05/4/8(金) 19:44 ┃ ┗Re(6):戦争体験を語って下さい3 秋明菊 05/4/8(金) 21:40 ┣Re(1):戦争体験(食料不足) 佐藤 圭 05/4/8(金) 19:37 ┃ ┣Re(2):戦争体験(食料不足) 松林 05/4/8(金) 21:32 ┃ ┃ ┣Re(3):戦争体験(日常生活) 松林 05/4/8(金) 23:22 ┃ ┃ ┗Re(3):戦争体験(食料不足) 佐藤 圭 05/4/9(土) 20:48 ┃ ┣Re(2):戦争体験(食料不足) ごまめの翁 05/4/9(土) 9:06 ┃ ┗Re(2):戦争体験(食料不足) ぎみゆら 05/4/11(月) 16:17 ┃ ┗Re(3):戦争体験(食料不足) 佐藤 圭 05/4/13(水) 12:09 ┃ ┣Re(4):戦争体験(傷痍軍人)珠さんへも 佐藤 圭 05/4/13(水) 21:16 ┃ ┃ ┗Re(5):戦争体験(傷痍軍人) ごまめの翁 05/4/14(木) 8:44 ┃ ┗Re(4):戦争体験(傷痍軍人) ぎみゆら 05/4/15(金) 16:41 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/12(火) 17:37 ┃ ┗Re(2):戦争体験を語って下さい3 佐藤 圭 05/4/12(火) 18:37 ┃ ┗戦時下の学生、生徒(1) 松林 05/4/13(水) 23:16 ┃ ┣Re(1):戦時下の学生、生徒(1) 佐藤 圭 05/4/15(金) 10:47 ┃ ┣Re(1):戦時下の学生、生徒(1) 松林 05/4/16(土) 21:56 ┃ ┃ ┗Re(2):戦時下の学生、生徒(2) 松林 05/4/16(土) 23:22 ┃ ┃ ┗Re(3):戦時下の学生、生徒(3) 松林 05/4/19(火) 23:26 ┃ ┗Re(1):戦時下の学生、生徒(1) ぎみゆら 05/4/16(土) 23:09 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/16(土) 9:41 ┃ ┗Re(2):シベリア抑留戦争体験を 佐藤 圭 05/4/17(日) 19:54 ┃ ┗Re(3):シベリア抑留戦争体験を ごまめの翁 05/4/18(月) 8:33 ┃ ┗Re(4):シベリア抑留戦争体験を 石頭の息子 05/4/20(水) 0:00 ┃ ┗Re(5):シベリア抑留戦争体験を ごまめの翁 05/4/20(水) 15:03 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/16(土) 9:43 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 MNG 05/4/18(月) 13:03 ┃ ┣Re(2):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/18(月) 14:29 ┃ ┗Re(2):戦争体験を語って下さい3 佐藤 圭 05/4/19(火) 21:57 ┣Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/21(木) 19:29 ┗Re(1):戦争体験を語って下さい3 ごまめの翁 05/4/23(土) 17:24 ┗語るのは何故ですか? 柚子 05/4/25(月) 23:26 ┗Re(1):語るのは何故ですか? 柚子 05/4/25(月) 23:47 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 戦争体験を語って下さい3 ■名前 : ごまめの翁 ■日付 : 05/3/26(土) 19:22 -------------------------------------------------------------------------
>『以下は「護憲+」ホームページhttp://www.geocities.jp/rojinto_goken/の「メンバー投稿(戦争体験者の証言)」に投稿したものですが、護憲+の世話人さんと老人党管理スタッフさんのご了解を得ましたので、こちらへ再投稿します。』 第三章 序文に書いた級友の事。私は自分の経験しか書かない事にしていますので、書く事はよそうと思いましたが、戦後60年経ったのと、その場にいた多くの級友が同じ事を言っていましたので、聞いた話で躊躇したのですが書く事にしました、此の事は戦後初めて発表する事です。 場所を書くのはお許し願います。敗戦後、ソ連が駐留して来たある国境の田舎町の出来事、其の地区の日本人は警察署に集結していたそうです。 其処に駐留して来たソ連軍の将校が、 「女性を集めて、ソ連兵の慰安に差し出せ」 と云われ、署長と其の将校と通訳を通じて激論の結果、 「遊女でもない家庭の奥さんを出すわけにはいかない」と 毅然として断った途端眉間を打ち抜かれ即死されたそうで、其の為、女性の性に対しての犠牲は回避できたそうです。 当時、普通なら強制的に連れ出されるのだが、何故に無事だったのか判らないと級友達は話していた。 其の一つの原因は全く無血で日本軍の抵抗か無いというか軍隊は何処かへ行っていなかった事でソ連兵には犠牲者が無かった事。そしてソ連の将校に人の心が残っていたのかと思っています。 しかし、父を目の前で射殺されて友の精神的ショックは如何ばかりか、友は一時失語症になったそうで、察するにあまり有ります。 男女同権平等は当たり前、しかし男女は同質ではない。男に子供を産めといっても出来ない相談。又、女一人でも妊娠はしない。戦争に於いても能動的な男性は、先に書いた元復員兵士が語った、「命をかけた時の一時の休みは女を抱く事しか考えて居なかった」事が、平常心でない戦争行為の時の精神状態は異常と云うより当たり前ではないでしようか。 此の問題だけでも殺戮を省いた戦争でも庶民に与える状況は、悲惨なものだと云う事を書いてみたつもりです。 兎に角、国家間の人殺しと云える戦争は、世界から消さなければ成りません。戦争がどれだけ地球を汚すのか、其れだけでも地球の今後の運命を左右すると思っています。少し穿りすぎでしょうか。 |
昭和史で許せないことの一つです。 (同じことを叔父から聞きました) |
第四章 弟に戦時中、日本軍が助けてくれたかの質問にはnoでした。かえって恐かったと言っていました。 以下は戦時中の沖縄戦記述HPです。 小学校教科書から「住民虐殺」の記述消える http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2004/2004_06/040612a.html 教科書に沖縄戦記述を/高嶋さんらグループが訴え http://www.okinawatimes.co.jp/day/200406131300.html#no_11 日本軍による沖縄住民虐殺 http://kyoto-getto.hp.infoseek.co.jp/okinawa/war/war2/war2f.html 今、政府は日本に軍隊が有れば国民を守れると国民に宣伝して法の改正を目論んでいます。 弟の様に実際に経験した者は国家の「軍隊が有れば国民を守れる」と云う事は通用しない。満州では戦った軍隊も有れば、肩章を外して民間に成り済ましてさっさと逃げた軍人も有り、どうも戦った兵士がシベリアに抑留されたらしい。 弟が逃避中に赤ん坊が泣くと敵に居場所が判るから黙らせという状況を経験しています。と云う事は邪魔者は殺せと云う事で、戦時中でしたら当たり前の事なのですが、その経験のない戦後生まれの国民は、戦争と云うものが、どの様なものかが判っていないのが私は歯痒いのです。 昨日の深夜から色々思いだしながら書いてみました。何度も書きます戦争と云う愚かな行為は絶対に地球上から無くなさねばと思います。 SFです。私は人間の特性として、何事も損得で考える人類では戦争は無く成らない感じる様になりました。もし宇宙外より侵入者が有れば地球の人類も一致団結するでしょうが。 世界で戦争が無くならず、資源の浪費が続くならば、その内に乾いた地球に変ぼうするまで気付かない。それが愚かな人類なのでしょうか。 拙い、お見苦しい文章お許し下さい。 >>でも此の様なスレは書き込む方が居られないのか、直ぐ圏外に去っていくのが淋しい。 次回より反戦の詩を送ります。 |
▼ごまめの翁さん: 皆さんが語って下さる戦争体験に、私たち戦後生まれのものはもっともっと学びたいと思います。 > 弟に戦時中、日本軍が助けてくれたかの質問にはnoでした。 > 弟の様に実際に経験した者は国家の「軍隊が有れば国民を守れる」と云う事は通用しない。満州では戦った軍隊も有れば、肩章を外して民間に成り済ましてさっさと逃げた軍人も有り、どうも戦った兵士がシベリアに抑留されたらしい。 > > 弟が逃避中に赤ん坊が泣くと敵に居場所が判るから黙らせという状況を経験しています。と云う事は邪魔者は殺せと云う事で、戦時中でしたら当たり前の事なのですが、その経験のない戦後生まれの国民は、戦争と云うものが、どの様なものかが判っていないのが私は歯痒いのです。 この2つの事だけでも「軍隊が国民を守る」とは限らないこと、そして赤ん坊の命すら守れないことが分かります。なによりも戦争を起こさない外交努力、それに尽きるのでしょう。決して戦争をしない国であることを誇りにできる国でいたいものです。 > > 何度も書きます戦争と云う愚かな行為は絶対に地球上から無くなさねばと思います。 ほんとうにそうです。そのためにも、どうぞ戦争を経験なさった方々に書いて頂きたいと願っています。 佐藤圭さん、松林さんの飢えの話、せつないですね。戦後生まれの私には、そこまで飢えた経験はありません。こうした年代の方々には、少々私たちの世代より多かろうと、ちゃんと年金を受け取って、少しでも良い老後を過ごして頂けたらと思います。 |
珠さん 戦争体験記の様なものは書き込む方が少なく、いつも二軍に落ちるのは早く,残してあるものを全部書き込むと直ぐに遠くへ行き淋しく成りますので,適当に書き込んでいましたが,最近は少し賑やかに成ってまいり嬉しく思っています。 残りは後5項目程ですが,最後に珠さんからも反論されるかも分かりませんが,慰安婦問題で経験したもの見たものを書いてみたいと思います。これは反論されるので絶対に書かないと思っていましたが,矢張り見た現実ですから最後に書く決心を致しました。 |
「せつない」のはこっちです。48667へ |
戦争体験、私の年代で戦争を家の中から覗いた程度ですから体験者は少ないかと思います。 社会一般に戦争に対しての認識が薄く成って、戦争はテレビゲームのアニメといった感じです。 余り長文は見苦しいので、短い詩の反戦歌を此れから少しづつ書いていきます。 一銭五厘の 紙切れは 遠い戦地に 行くはがき もらった 父さん兄さんは いのちを国に さしだした いつか来た道 もどり道 國が決めた 戦争に 否応なしに かり出され 見知らぬ 他国の人々を 撃たねば成らぬ このつらさ いつか来た道 もどり道 九条で 戦争放棄を 決めたはず それなのに 戦車に飛行機 イージス艦 いつのまにか いまは有る いつか来た道 もどり道 |
詩・2 三国同盟 国家で決めて 何時のまにか 大戦争 不可侵条約 破棄されて 国際条約 懲りたとおもう いつか来た道 もどり道 日本には 日米安保が 有るけれど 自分のくにが 危ない時に 他国迄は守れない 国際条約 当てにはならぬ いつか来た道 もどり道 新憲法 アメリカさんが 造ったと 日本人の憲法に しろとお尻を つっつかれ 創るけんぽは USAの息がかり いつか来た道 もどり道 |
この書き込みは管理者によって削除されました。(05/4/4(月) 9:08) |
▼aubeさん(47540): Ray@スタッフです。 この書き込みは、掲示板のルール(投稿内容、転載、引用その他/ 字種、文字数の制限)のうち 1. 伏せ字、隠語の使用および掲示板を混乱させる恐れのある投稿は禁止 5. そのほか、投稿内容が著作権などの各種法令および公序良俗に触れることのないように留意する 7. この掲示板の設置目的から著しく逸脱した書き込み、または無関係なサイト等の宣伝、勧誘は禁止 の「掲示板を混乱させる恐れのある投稿」「無関係なサイトへのリンク」 に抵触するものと見なし、削除対象として スタッフ連絡板に移動しました。 以後、この書き込みへのレスを禁止します。 なお、この件に関するご意見は、私の書き込みへの 返信としてではなく、スタッフ連絡板にお書きください (総合掲示板に書かれたご意見には原則としてレスいたしません)。 よろしくお願いいたします。 |
Aubeさん 知っていますよ,だから人が人を殺める戦争に反対していますし、私の場合は情報や人から聞いた話でなく体験を語っているだけです。 |
詩・3 戦争は 出征兵士を 送る日々 日の丸持って 駅に立ち 涙を浮かべ 元気で帰れと 手を振って いつか来た道 もどり道 戦死者の 公報あるたび 其の遺族 その顔とても寂しそう お国の為だと 思っていても 後ろ姿は ふるえてる いつか来た道 もどり道 母さんも 兄を予科連 送りだした そのあとも 誰も居ない ホームの上に 一人ぽつんと 立っている いつか来た道 もどり道 |
▼ごまめの翁さん: >詩・3 > >戦争は 出征兵士を > 送る日々 日の丸持って >駅に立ち 涙を浮かべ > 元気で帰れと 手を振って >いつか来た道 もどり道 > >戦死者の 公報あるたび > 其の遺族 その顔とても寂しそう >お国の為だと 思っていても > 後ろ姿は ふるえてる >いつか来た道 もどり道 > >母さんも 兄を予科連 > 送りだした そのあとも >誰も居ない ホームの上に > 一人ぽつんと 立っている >いつか来た道 もどり道 (戦後まではやった平和な軍歌) ホームの陰で泣いていた 可愛いあの子が 忘らりょか 汽車の陰から手を振って 送ってくれた 可愛いあの子が 忘られよか (ちょっと違うかも、誰か直して、 60年前の記憶を口ずさむ) |
佐藤 圭さん 何時も見て頂いて有り難うございます。 戦争体験記はもう見向きもされない題材ですが、あと5回程で完結しますので拙いものですが御覧に成って下さい。 日本もどんどん元の迷い道に入っていきます。私の人生の残りは多く有りませんが、孫達には私たちと同じ経験をさせたくはありませんね。 詩・4 父さんは 元気で生きて 帰って来いと 心の中は 思っていても 口には出せない 其の辛さ 民の心の空しさよ いつか来た道 もどり道 母校に顔を 出す時 何時も必ず 出撃まえ 武運を祈り 手を振って 送る姿は もう見れぬ いつか来た道 もどり道 右と左の 分かれ道 どちらに 行くかは国民が 決める事だと 思うのに 政治家官僚 勝手に決めて もどり道に 迷い込む |
▼ごまめの翁さん: > >詩・4 > >父さんは 元気で生きて > 帰って来いと 心の中は >思っていても 口には出せない > 其の辛さ 民の心の空しさよ >いつか来た道 もどり道 > >母校に顔を 出す時 > 何時も必ず 出撃まえ >武運を祈り 手を振って > 送る姿は もう見れぬ >いつか来た道 もどり道 老人党の人よ この意味と感情を わかりますか。 私らの、兄や先輩は「天皇陛下のためなら生きては帰りません」と出征して行ったのです。 ああ それなのに 昭和天皇 > 一言の謝罪の言葉もなく 死んで行っちゃった。 ああ それなのに 国会は 憲法9条改定に走っている。 聞け わだつみの声を {以上 昭和1桁人の鎮魂の応援か} >右と左の 分かれ道 > どちらに 行くかは国民が >決める事だと 思うのに > 政治家官僚 勝手に決めて >もどり道に 迷い込む |
ごまめの翁さん おはようございます。 いつも、尊いお話ありがとうございます。 >佐藤 圭さん > 何時も見て頂いて有り難うございます。 > 戦争体験記はもう見向きもされない題材ですが、あと5回程で完結しますので拙いものですが御覧に成って下さい。 > 日本もどんどん元の迷い道に入っていきます。私の人生の残りは多く有りませんが、孫達には私たちと同じ経験をさせたくはありませんね。 私もいつも拝見させて戴いています。 ただ、体験もありませんし身近で話してくれる人もおりませんので、感想も軽いモノになる恐れがあり、書き込みしないだけです。 これからも、ごまめの翁さんや佐藤圭さん、戦争体験や戦中戦後の日本の様子をご存知の方達のお話をお聞きしたいと望んでいます。 どうか、思い出した時にでも、ボツボツとでも、末永く続けて下さる様お願い致します。 |
▼秋明菊さん 見て頂けた事だけでも嬉しく思います。 今朝の読売の社説には改憲論者が増えているとの事。BBS仲間が国会にデモ行進し人数も多かったが新聞には載っていないと言っていました。此れでは改憲論者が増えるのは当たり前で、もし改憲に成ったらメディアも同罪。そして海外派兵して犠牲者が出たしとたら此れも政府にすり寄っていったメディアにも責任が有ると思います。 これは戦時中のメディアと同じに成ったなと感じます。 色々な処に少し書き込んでいますが,当時、弟(小六)と妹は(小三)両親が死んだ後に満州の荒野を1000キロ近く放浪しています。兄の私でもどうやって満州孤児に成らず日本に帰れたか見当も付きません。日本に上陸した時は着るものが無く,ドンゴロスの袋を纏っていたと云います。二人とも当時の事は語りたがりません。忘れたいのでしょう。 私たちは兄弟だけで助け合って生きてきましたから、此の二人は小学校も卒業していません。 もう二人とも年金生活者に成っていますが、やはり当時の傷跡は残っている様です。 |
ごまめの翁さん こんにちは!レスありがとうございます。 > 見て頂けた事だけでも嬉しく思います。 うら老人党のHPが出来たおかげで、戦争体験などもいつでも読みたい時に読めるようになりました。 戦争を知らない、またその様な本を読まない若い人や子供達にも読んで貰えるのでは?と思っています。 現状の読者の為だけでなく将来の読者の事も念頭に置いて、続けて戴けるとうれしいです。 > 今朝の読売の社説には改憲論者が増えているとの事。BBS仲間が国会にデモ行進し人数も多かったが新聞には載っていないと言っていました。此れでは改憲論者が増えるのは当たり前で、もし改憲に成ったらメディアも同罪。そして海外派兵して犠牲者が出たしとたら此れも政府にすり寄っていったメディアにも責任が有ると思います。 > > これは戦時中のメディアと同じに成ったなと感じます。 イラク人質事件から、メディアにも為政者にも疑問を持つようになりました。 先日、イラクから帰った米兵の6人に1人は精神が病んでいる、と米国のニュースで取り上げていました。(2人に1人という説もあります) 戦争になって、よい思いをするのはホンの一握り、ほとんどの人は辛い辛い思いをする事は間違いないと思っています。 第二次世界大戦の時も、多くの庶民にとっては突然の出来事だったそうですね? 戦時体制に入れば、威勢の良い言葉が喜ばれ、冷静な判断が出来にくくなる事は、今の報道に影響を受けている人々を見ていれば分かるような気がします。 > 色々な処に少し書き込んでいますが,当時、弟(小六)と妹は(小三)両親が死んだ後に満州の荒野を1000キロ近く放浪しています。兄の私でもどうやって満州孤児に成らず日本に帰れたか見当も付きません。日本に上陸した時は着るものが無く,ドンゴロスの袋を纏っていたと云います。二人とも当時の事は語りたがりません。忘れたいのでしょう。 > 私たちは兄弟だけで助け合って生きてきましたから、此の二人は小学校も卒業していません。 > もう二人とも年金生活者に成っていますが、やはり当時の傷跡は残っている様です。 あまりに辛い思いをされたので、思い出したくないのでしょうね。 そんな思いをしている人達が元気でいらっしゃる内に、声を出して戴きたいですね。 日本人は、過ぎた事はもういいじゃないか、って考える人が多いようですが、歴史に学ばなければ、また同じ過ちを繰り返す事になりそうで怖いです。 ところで、ドンゴロスの袋って、麻の袋だそうですね。 辞書を引いて分かりましたが、知らない事が多くて恥ずかしいです。 これからも色々教えて下さい。よろしくお願い致します。 |
秋明菊さん。 よくみてくれました。 また書く気になりました。 どうぞ読んで、想像して、また、お知り合いの お年寄りからも聞いてあげてください。(生きているうちに)。 |
佐藤 圭さん こんばんは。 >また書く気になりました。 どうぞ読んで、想像して、また、お知り合いの お年寄りからも聞いてあげてください。(生きているうちに)。 ありがとうございます。早速読ませて戴きました。 本などで知っているつもりでも、知り合い(でよろしいでしょうか?)の方の体験されたお話を聞くのは、特別です。 今はお腹が空くという経験がほとんど無くなりました。 それどころかお腹が一杯なのに、別腹だなんて言ってお菓子などを食べています。 その内、こんな生活にしっぺ返しが来るかもしれませんね。 日本は食料自給率が低いという事を、しっかり頭に入れて置くようにします。 周りのお年寄りに聞くと、「昔の事だから忘れた」って笑っておっしゃいます。 きっと、聞きかたが悪いのですね。機会があったら又挑戦します。 |
戦争体験で一度は書かねばと思っていたのは食料不足のことです。 昭和20年前後 私は旧制中学生の時代でした。 断片的ですが想いだすまま書いてみます。 勤労動員で毎日のように農家(出征兵士の留守農家)へ手伝いに行きました。 お昼のときご馳走になるが最高が梅干おにぎり(大きな裕福な農家または私たちのために無理して作ってくれたか)。普通はさつま芋かじゃが芋でした。 当時弁当を自分でもっていく生徒は少ない。疎開の人達は特にないので無理でした。貧乏な農家では何も出せないことがよくありました。このときは昼食抜きでお腹がすいて辛かった。、でも当時は何時もお腹は空いていたのが当たり前でした。 そんなときは畑できゅうりかトマトなどを失敬して食べました。 さつま芋を手で掘って生のまま食べたこともしょっちゅうでした。(おいしいですよ、いまでも食べてみるとよい。芋の種類がよくわかる) 学校へ登校した日は大部分の生徒は弁当を持ってくるがたしか2〜3割の人はさつま芋だけでした。白米の人はいない、私はじゃが芋と麦混じりまじり、おかずは梅干か紅生姜でした。魚は干しいわしが最高でした。 終戦戦後はコッペパンがはやったのを想いだす。 でも10時ごろまでにはみんな食べちゃって残っていませんでした。 戦時中は「月月火水金金」で土、日曜日はありませんでした。軍隊にならうためです。このため勤労奉仕に休みはありませんでした。 米、醤油、味噌は全て配給のみですから足りません。戦争がいどくなる毎に配給量は少なくなっていきました。 ヤミ米はお金では買えません。インフレがひどかったので、食料の入手衣類、魚、果物などと物々交換でした。 疎開の人やサラリーマンは身のまわりを削って活きたのです。この当時です、今でも有名な話、裁判官が法を守りヤミ食料を拒んで餓死した人がでました。 要するにこの時代政府官庁の言うとおりにしたら生きられなかった証拠です。 ただ軍隊は民間に比べたら食料は豊富でした。軍の担当はヤミへ流していました。 魚、肉と交換などしていたのを覚えています。 お金は学校の授業料、配給物、たばこなどに使うだけで食料は遠くの農家へ行かねば買えませんでした。でも汽車の切符を買うのが行列で大変でした。 終戦間際の頃はインフレがひどく価値が下がり何も買うことができなくなりました。着物など衣類のほうがお金代わりだったよう記憶です。 俸給生活者は気の毒でした。親譲りのかたみの衣料などを出し、涙をだしながら食料を食料と交換していた奥さん方を想いだします。 もうみんな死にました。生きていたら護憲9条を死守する勢力だろうなと思う。 私らは中学生ですから最も食べ盛りのときでした。 戦後すぐだったと思う。お腹が空くとラーメンへ入るか(食べるか)映画館へ入って空腹を忘れるか、どちらかを選びました。丁度ラーメンと映画館入場料が同じくらいだったと思う。 最近も山へ行ったときなどでお腹を空かすとあの時代を想いだします。 今の時代は、ほんとうに、「もったいない」時代だと思います。 もっと書きたいことがいっぱいあるがきりがないのでこの辺でやめますが、あとはどうぞ80歳前後のおばあちゃんに聞いてみてください。 |
八十歳直前のおばあさんです。 わたしはある時期までは自分が正真正銘の戦争体験者のつもりでした。 けれど、近年(なんです!!!)になって、実際に下町で空襲下生き残った経験や、こちらでもごまめの翁さまなどのご経験を知るにつれ、親類縁者に戦地に行った者もなく、空襲にも遭わず,引き揚げの辛酸をなめてもいないので、戦争体験者とはいえないような気がしていました。 けれど佐藤様お書きの件では有資格者だとおもいますので書かせていただきます。 戦争を仕掛けた国であっても、国民はこういう生活だった、今食料自給率40パーセントでしたか、の国が戦争をしたらどうなるか、若いかたたちにも知っていただきたいと思います。 前置きが長くなりましたが・・・ 昭和17年頃でしたか、お米が配給でしか買えなくなりました。一人1日二合三勺です・・・なんだ、十分じゃないかと思われるかもしれませんが、お米は僅かで、後は麦やメリケン粉ならいい方、ふすま(むぎの皮を砕いたもの)、薩摩芋(中はほとんど甘味は無く、白い水っぽいもの)ジャガイモ 、かぼちゃ(これも甘味なし)大豆滓などでした。 肉などは庶民の手には入らず、魚(鮫の切り身が配給になったこともあります)、野菜も調味料も配給でした。もちろん、米同様、いずれも僅かでした。 ですから、ご飯といえば、僅かなお米に、麦、大根や薩摩芋などをいれたもの、お菜もろくにありませんでしたから、いつも空腹でした。 なんとか補おうとみな田舎や農村に買出しに行きました。もちろん農家も自家用を残して供出していますから、おいそれとは売ってくれません。それで着物などをもって行って、拝み倒して買ってくると、途中でお巡りさんが待っていてとりあげます。何とかうまく逃れて汽車にのっても、途中でお巡リさんが調べに来るとアウトです。とりあげられるのが厭さに折角手にいれた米を窓から捨てたという話もありました。学生だった夫は鞄の底に米を入れ、その上に本を並べてもってきたこともあったそうです。若いから出来たけど重かったといっていました。 その頃の生活について次に書きます。 |
前項で、お巡りさんがひどいように書きましたが、これはもちろん、配給以外で食糧を手に入れるのは違法で(闇といいました)それをを取り締まるのが、警官の仕事でした。ひどいのもいましたが。 食料だけでなく、衣類も配給で、着るものはもちろん、手ぬぐい一本でも衣料切符が要りました。育ち盛りの子供のいる家庭は特に大変でした。 配給がどのようになっていたのか記憶が確かではありませんが、石鹸やちり紙もありませんでした。本当になにもかもないのです。 トイレ(お便所といってました)では新聞の切ったの、のちには古雑誌などを使っていました。(水洗トイレはほとんどありませんでした)、 石鹸がないというのは悲惨です。数もない下着を水で洗濯するだけですから清潔とは程遠いです。寝床では蚤が飛び跳ねていましたし、髪の毛と下着には別種の虱がたかっていました。 敗戦後、アメリカ軍が持ち込んだDDTがよくききました。畳の下などに喜んで撒いてました。引揚者の方たちに頭から浴びせたというのも聞きました。毒性があると知ったのははるか後のことです。 沖縄を除いて陸上戦のなかった日本の庶民の生活はこんなものでした。もちろん地域によって差はあり、原爆、空襲の被害者とは到底比較できるものではありません。それでも、経験した私達を含めて今の人たちには耐えられないと思います。 それにつけても、日本軍に侵略され、自分の村で、町で、戦争があった人たちがどんな目にあったか、今どう思っているか、それに思いをいたすことを忘れてはいけないとこれを書きながら思いました。 |
松林さん ごまめの翁さんも よく書いてくれました。 戦争体験では3人とも夫々環境の違いがあるようですが、物不足・食糧不足では期せずして全く同じですね。 松林さんの記述は戦後まで続きましたね。今では懐かしくさえ感じられます。 松林さんのような女性で昭和のはじめ生まれの方が戦争時代の内地大衆の苦しみと悲哀を一番体験していると私は考えます。 昭和史作家保坂正康氏の著作によれば 44ヶ月の太平洋戦争で日本では約310万人の軍人、民間人が直接戦死した。 戦後になっての戦病死を入れると500万人は超える。(厚生省調査) このうち最も多いのは当時20歳代で大正10年前後生まれの人だそうです。 戦死者の多い世代の配偶者は悲惨な目に会い、また私の姉の世代の女性は独身者が多いそうです。 戦争体験というものは直接戦地や被爆や原爆被害だけでなく内地で苦労した今80歳前後の方々の体験が重要だと思います。 このことを埋もらさないよう記述し語ることが戦争を2度としないよう護憲9条の元になると思います。 先の私の書き込みで「80歳前後の女性(おばあちゃん)の話を聞け」といったのは意味でした。 何人かの作家は書いています。しかしそのような人も死んでいっています。 松林さん あなた達こそ日常生活の戦争体験を語るべきです。 映画「父と暮らせば」の主人公(宮沢りえ)の世代の方です。 |
▼佐藤 圭さま ▼松林さま 本当です。私の戦争体験には腹ぺこが抜けていました。 でも私の体験は日本が戦争に突入した時期には今の北朝鮮それも満州との国境が国境でしたから,皆さんと聊か違うとおもいます。 日本が満州に手を出した一つの理由に食料問題もからんで日本から大勢の開拓義勇軍が送り込まれていますが,戦時中食料不足の時に国境の町では不思議な事に鴨緑江【朝鮮民主主義人民共和国と中国との国境を西流する川。白頭山に源を発し、黄海に注ぐ。長さ七九〇キロ。アムノック川。ヤールー川。】の国境の橋を渡ると豊富とは云えませんが、砂糖やお饅頭、私の好きな春雨も有ったのが不思議なのです。 小学校を出て学業のため京城に出ましたが、国境の田舎と違い矢張り食料は逼迫していました。しかし内地と違い爆撃を受けていませんから本土の方よりは少しは良かったかと思います。しかし何時も腹ぺこだったのは間違いなく,同級生の集まりの話の中では腹ぺこ談義は必ず出ます。 皆さんは経験が有りませんか。よく美味しいものを食べると「顎が落ちる」とか「ほっぺたが落ちる」とか言いますが腹ぺこを経験していない方は味わえない思います。私は二、三度経験をしていますが、忘れもしない最初は、対岸の満州の同級生の家に遊びにいった時に出された甘い餡子のお饅頭を一口かぶりついた時に,何とも表現が出来ませんがあごかだるく抜けそうな感覚に成りました。あれが顎が落ちるというのでしょう。 考えると人間一生で此の様な感覚の経験が出来たのは人間として幸福かも笑い。 腹ぺこ談義とは違いますが,私の無抵抗主義や戦争反対の根拠の一つにこの食料が有ります。戦前日本が反枢軸国と云われる国々からの経済制裁によって物資が不足してきました。今の北朝鮮によくにた状態です。 日本を攻めるのは武器などいりません。60%ほど輸入に頼っている日本は輸入できない状態にすればよく、アメリカは戦後日本に対する政策,云うなれば,日本が食料を輸入しなければ成らない国にしてしまったと思っています。 何故なら,アメリカは武器を持たせば未だに日本は恐い国家だと思っていると思いるのだと思います。しかし改憲迄させ軍を持たそうとするのは、一番根っこにある食料を押さえているから,現在の様に何でもアメリカに追従する国家にしたと思っているのではないでしょうか。 私は穿ち過ぎかもしれませんが戦後60年掛けてアメリカが日本を改造したと思ってます。 すみません。戦争体験とは少し話がずれました。 |
佐藤圭さん、松林さん、ごまめの翁さん、こんにちは。 私の父は昭和6年、母は昭和5生まれです。アネサンニョーボなん です。いつもお腹を空かせていたというのは、私も、断片的にでは ありますが、いろいろと聞かされてきました。 母は、台湾がサツマイモに見えたと言います。学校の教室に貼って あった地図の、日本の版図が赤く塗ってある。朝鮮半島も、台湾も。 その赤い台湾の島が、どうしてもサツマイモに見えてねえ。いつも お腹が空いてたんだよねえ。そう言います。 父がそれを横で聞いていて、「日本一高い山は富士山じゃなかった んだぞ」と口を挟みます。「新高山だったんだ」。たしかに、当時の ニイタカヤマ、現在の台湾の玉山は、標高3952メートルで、標高 3776メートルの富士山より200メートル近く高い。 私が子どものころ、1960〜70年代くらいまでは、まだまだ世間にも 「戦争の記憶」がありました。街角に立つ傷痍軍人もいたし、テレビ ドラマなどでも、戦災や戦中生活の苦労が背景として出てきました。 そういったものもいつの間にか、ずいぶん影が薄くなっていますね。 私はこれでも、両親からけっこう戦中の話を聞いているほうだと 思うのですが、たしかに、日常生活のことを、系統的に、まとめて、 という意味では、まだまだ聞いておいたほうがいいことがありそうだ なあと、みなさんの書き込みを読んで、あらためて感じました。 時日とともに薄まり、消えていっていい記憶もあるでしょうけれど、 「戦争の記憶」は、そういうわけにはいきません。薄まりつつあるの なら、作り直さなければいけない。そういった意味でも、「いま」が ちょうど節目であり、分かれ道でもあるのだろうなと、思います。 |
レスを書いてくれて有難う。 私とお父さんは同学年ですね。 「街角の傷痍軍人」のことを想いだします。 戦後戦地から復員してきた「傷痍軍人」(手や足をなくした人)は昭和20年〜30年くらいまで宮城、靖国を追われ、上野、新宿、池袋、渋谷、東京などターミナル駅前広場に沢山集まりました。 生活資金をもらう(乞食)ためアコーデオンで軍歌を演奏しながらお金をもらっていました。 当初(20年から25年)はほんとうの傷痍軍人で白衣の病院服装と松葉槌で下手なハーモニカ、アコーデオンで「異国の丘」「麦と兵隊」などを歌っていたのを覚えています。 しかしその後世の中落ち着いてきてからは、全てではないが偽の包帯をした街頭芸人でした。ぎみゆらさんが見たとすればその頃でしょう。 せんだって珠さんが食料不足の話に「せつない」と言っていましたが、むしろこの方が私は戦後の「せつなさ」を感じたことはありませんでした。 美空ひばりが出てきた(素人のど自慢で金2点だった)時代でした。そのうちひばりが子供のプロとして売り出した頃から少なくなったようなきがします。 この時代 池部良、鶴田浩二らが復員し戦争映画がはやってきたときでした。 (この話を書き出すと止まらなくなるのでこの辺で又に) そのころ私は先輩や兄が生きて帰ったらと思いでほんとに「せつなかった」。 ぎみゆらさんに触発されてつい。話したくはなかったが。 |
傷痍軍人とは負傷軍人で内地へ送還された人達です。 戦争中は目立ちませんでした。陸軍病院などにいたからだと思います。 今後も「戦争体験」は語り続けます。 |
終戦直後の話ですが,引揚げて半年程して体調をくずし元陸軍病院に二ヶ月ほど入院しました。思い出せませんが誰が費用を支払ってくれたか覚えがないのです。 ここでは殆ど傷痍軍人で将校は少なく下士官以下の兵なのです。南方からの兵隊さんの中にはジャングルを彷徨った経験からでしょう。食べ物のない時代でしたから,アオダイショウや蛙,野草などをとっては料理して食べろというのです。躊躇していると「お前みたいな奴は野戦に行ったら生きてはいけない」と言われたのを覚えています。 戦後,アメリカ軍が野戦用の食料の缶詰などを見ましたが,食料の補給も出来ない軍隊は勝てるわけがないと感じました。 ですから戦争は武器でけでは戦えないと思う様に成りました。 |
佐藤圭さん、こんにちは。 お話しになりにくいこと書いてくださり、ありがとうございます。 「傷痍軍人」のことは、そういえば、私も少し、その「感じ」が わかるようなところがあります。おっしゃるとおり、私が繁華街で 見かけたのは、まだ自分が幼い頃ですから、昭和30年代後半辺り でしょう。 「あのオジサンは何をしている人?」と私が尋ねたときに、父が、 「あれはショーイグンジンっていうんだよ」と教えてくれながら、 なにかこう、ちょっと複雑な、それ以上あまりしゃべりたくない ような顔を、したような気がするのです。 いまから思えば、佐藤さんがおっしゃるようなニュアンスを、父も わかっていて、でもそこまでは子どもに説明できず、また言う気にも ならなかったのだろうと思います。 それとはまた違う話ですが、同じ頃、「美空ひばり」についても、 ウチの父母には、少々複雑な気持ちがあるようでした。 まだ毎年紅白に出ていた頃、美空ひばりの出番になると、「ひばり かぁ」と、懐かしいような、でもどこかちょっと、あまり見たく ないような、少々ややこしい表情を見せることがありました。 いつの間にか、チャンネルを変えてしまうこともあったり。そのころ 大晦日の夜にとくに理由もなく紅白からチャンネルを変えるなんて、 あまりないことでしたので、子ども心になんとなく不思議に感じた、 その「感じ」が、いまも、私のなかのどこかに残っています。 それも、いまになって振り返ると、佐藤さんが書いてくださった 「言いようのない切なさ」のようなものと、どこかでつながって いるところがあるのかもしれないなあと思いました。今度、機会を 見つけて、父母に聞いてみようと思います。 |
詩・5 国民の意見は 耳に栓 何でもかんでも 民のためだと 押し付けて 己だけが納得し 暗い夜道に 迷い込む いつか来た道 もどり道 学校で お国の為に 死ぬんだと 教えを受けて 育ったが 其れが今だに 残ってる 教育とは何だろう それが本当に 腹が立つ 陛下のため 命を捧げ 若もの達は 志願する はたち前の 其の命 体当たりしに 特攻へ 自爆テロも 同じ道 |
▼ごまめの翁さん: >詩・5 > >国民の意見は 耳に栓 > 何でもかんでも 民のためだと >押し付けて 己だけが納得し > 暗い夜道に 迷い込む >いつか来た道 もどり道 > >学校で お国の為に > 死ぬんだと 教えを受けて >育ったが 其れが今だに > 残ってる 教育とは何だろう >それが本当に 腹が立つ > > >陛下のため 命を捧げ > 若もの達は 志願する >はたち前の 其の命 > 体当たりしに 特攻へ >自爆テロも 同じ道 (佐藤 追記) ああ それなのに それなのに 一言も 昭和天皇 謝罪なし 怒るのも 怒るのも あったりまえでしょう。 |
戦時下の学生生徒たちがどのような生活をしていたか書こうと思って、しまってあった資料をだしてみたのですが、うまくまとめられませんので、まず自分の経験を書いてみます。 昭和十八年の女学校五年の夏休み、五年生は近くの軍事工場に勤労奉仕にいった。ただし私はこの時は腸チブスで入院中だったので詳細は不明。 昭和十九年、専門学校に入学して寮に入る。体育館と生徒控室が学校工場になっていて、上級生が日立航空機立川発動機製作所の小物部品のナット磨きなどをしていたようである。 だが、時の三年生は学業短縮で、九月に卒業、私達一年生も授業時間を減らして作業をするようになる。 同年12月22日より、体育館を大改造して、大型の機械ーーー旋盤、ボウリング、ミリングなどーーーが据え付けられ、日勤、夜勤、深夜勤の三交代制で、工員さんに叱咤激励されながら飛行機のエンジンの部品つくりをする。 この作業が終戦の日まで続いた。 当然授業はなかった。(日勤と夜勤の時に少し講義があったともいう) こういう作業をしていても食料難は深刻で、雑炊とかすいとん、あるときなどは馬鈴薯のゆでたの二個だけだったりした。カレーというと、丼にお箸も立たないような黄色い三分?かゆが入っていて、大根と人参が入っていた。 この間の5月初め,二棟ある寮の一つが軍に接収され寮生は一つの寮につめこまれた。二人部屋に四人で、深夜勤のものが寝付かないうちに日勤のものが起きる、そんな毎日だった。体調を崩すものも続出した。 この時期は空襲もひどく、家が焼けてそのまま休学、退学していった人もいた。 寮に持ってきていたものだけが残ったという人もいた。 男女を問わず理科の学生が優遇され、後に廃止されたが、理科生は徴兵猶予もあった。私たちの学校の理科生も機械作業は無く、電波の数値計算とか分析作業をしていたようである。、 |
懐かしい思いで見ました。 昭和18、19年か学徒動員では理科系の学生(高専は当然)は国内で開発、生産に従事させたので戦地へ動員されたのは文科系の学生だけだったようです。 戦後生き残った20歳台の知識人は理科、技術系の人が多く、戦後の産業復興にあたったのはこの人達だったのです。 文化系の多くの学生は特攻隊で死んでいきました。 「きけわだつみの 声」をみても文化系(哲学的表現あり)の匂いが多くします。 私の先輩もみんな技術やでした。 そんなことを想いだしました。 松林さんこれからも、ゆっくり、マイペースで想いだすごとに、少い行数でも 書いてください。 私も絶やさないように書いていこうと思っています。 孫が理解してくれることを楽しみに。 |
補足と訂正 女学校―ーー旧制度 小学校6年を卒業した女子が進学した。地方では四年制だったが、大都会では五年制だった。 男子のこれにあたるのが中学校だった。義務教育ではない。 軍事工場――ー> 軍需工場の誤り |
佐藤圭さま、 お読みくださってありがとうございます。 (1)を書き始めてから、出身女学校の同窓会が作った記録を見つけました。 それを読んで分かったことは、昭和2年から5年生まれの生徒たちは、上級学校に在学して動員された私たちに勝るとも劣らない苦労をしたということでした。 しかも生徒をその軍需工場に動員されていた各学校は、敗戦後、日本軍に協力したと占領軍に追及されるのを恐れて、生徒たちがどこの工場に何人、何日、行ったか、どういう作業をしたかなどの記録一切を破棄していた、つまり工場動員の記録が学校にはないということが分かったのです。(占領軍は、私信も開封、検閲していました) そういう経過を経て、同窓会の当該学年の幹事たちが、学校の援助のもと、当時の法令を調べ、自分たちの記憶を掘り起こして作った記録集(1999年)が手許にあります。(学校で社会科の副読本につかっています) 工場作業の内容、待遇、往復の苦労、病気と事故、機銃掃射を受けたこと、卒業までの勉学日数、その他、日常生活、世相等々、じつに詳しくかかれています。 ここに書かれていることは、実は当時の中、女学生の殆どが経験したことだと思いますので、そこから拾って当時の生徒の体験を書いていこうと思います。読んでいただければありがたいです。 |
ぎみゆらさん、こんばんわ。 お母上さまは軍需工場への勤労動員の最後の学年ですね。今の中学3年生です。成長盛りなのに食料がなくて、しかも工場動員、わたしなどよりずっと大変な思いをした学年です。寮にいて学校工場で働いたわたしたちと違って、工場の空襲、電車がと止まる、機銃掃射にあうなどということもあったかもしれません。 亡くなった私の下の妹も同学年で、中島飛行機,横河電機、ガラス綿工場に動員されていたそうです。前述した女学校の記録で最近知りました。 私は、妹がそのうちのどこに行って、どういう作業をしていたか知らないのです。 どうしてか考えてみました。私は寮にいて、学校工場で三交代で働いていて、めったに家に帰れなかったこと、その頃家が建物疎開――工場などに通う車のためと、空襲による類焼を防ぐために道路を広げる目的で家を強制的に壊すことーーー にあって、一家六人知り合いの家の二間に荷物ごと暮らしていたため、多分その大変さとか食料の調達とか、そんな話をしていたのかと思います。それと、妹たちの工場生活は家族にとって日常てきに話していて、わたしの生活が非日常のため、わたしばかり話したのかもしれません。いずれにしても、今考えると異常でした。、 田辺聖子の『お母さん疲れたよ』という作品に、大阪の兵器廠(正確では在りません)だかに動員になっていた中学生、女学生が、工場が空襲にあって命からがら逃げ惑う話があります。 余談ですが、くぬぎ林は荻窪生まれ荻窪そだちです。 |
松林さん、こんにちは。 私の母は十三高女です(現在の都立武蔵高校、武蔵境)。昭和17年 入学。「生めよ増やせよ」の時代で、学校作りが追いつかず、母は 3回生なのにまだ校舎が完成せず、中野の仮校舎に通っていました。 当時西荻窪に住んでいたので、中野までは通勤に重なる上り電車で、 大変な混雑だった。2年生になって(昭和18年)、ようやく武蔵境の 校舎が出来て、今度は下り電車での通学で、ずっと楽になった。 でもそれが見る見るうちに、ものすごく混むようになった。いまから 思えばその頃、立川界隈の日立などの軍需工場に動員される人が、 どんどん増えていたのだろうか。 3年生のとき(昭和19年)、勤労動員で昭和飛行機の工場勤務に なった。現在の昭島。──これまで折にふれて聞いてきた話に、 先ほど電話で聞き足して、だいたいそんなだったとわかりました。 何かの足しになればと思い、とりあえず、ここまで書き込んで おきます。昭和飛行機勤務のときの話もある程度聞いていますが、 またいつか書きたいと思います。 それから、東京の地理をあまりご存じない方、端折った書き方で ごめんなさい。地名、駅名はいまも続いているものですので、 よろしければ地図や電車路線図などをご覧ください。 以上、取り急ぎ。 |
[シベリア抑留]「『北朝鮮移送』の全容解明を」 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050415ig91.htm >>第2次大戦後、旧ソ連・シベリアに抑留された日本軍将兵らのうち2万7000人が、北朝鮮に移送されていたことが、ロシア側から日本政府に提供された名簿で判明した。病気やけが、栄養失調で労働力とみなされなくなった人たちだという。 何処の国家も自国の都合の悪い事は隠ぺいする。これは戦勝国の何処でも有る事だと思うのだが、一般人には分からない。戦後60年も経って発表される。戦争で犠牲にされた者は消耗品なのだろうか。 戦後、若者達を無駄死にさせたと自決した司令官も居られたが、平気で戦地に送り込んだ政治家はどうなるのだろう。 幸いイラクでは自衛隊に犠牲者はでていないのだが、もし犠牲者が出てアメリカがベトナムの様に投げ出して、イラク派兵の意味が無くなったら,此れを命令した政治家は腹を切って詫びるのだろうか。政治家でも赤ん坊でも命の重さは等しい。 だから戦争は駄目なのだ。 |
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050415ig91.htm 私は昭和史で許せないことが三つある。 1・昭和天皇の戦争責任 2・アメリカの広島、長崎への原爆投下 3・ソ連終戦間際の満州侵攻とシベリア抑留 です。 いずれ機会をみて書いてみたいと思っています。 シベリア抑留については個別の体験談など聞いていましたが、これは新たな情報ですね。関心が強いので見たいものです。 |
▼佐藤 圭さん >私は昭和史で許せないことが三つある。 >1・昭和天皇の戦争責任 >2・アメリカの広島、長崎への原爆投下 >3・ソ連終戦間際の満州侵攻とシベリア抑留 4・私は此の他に東京大空襲を含めたB29の無差別爆撃も含めたいです。 軍事施設なら仕方が有りませんが,東京大空襲でもアメリカは焼夷弾の実験をして,日本家屋に与える影響が最大になりあの様な被害出るのが分かっていて爆撃しているのですから確信犯です。 此の爆撃などの行為が良いか悪いか,勝った国と負けた国とでは考え方が変わります。 話は飛びますが現代を考えると、 ミサイルは人間が造った物です。管理するのも人間です人間は間違いを犯す動物です。機械は故障が付きものです。もし万に一つボタンの掛け違いが生じたらどうなるのでしょう。 ですから戦争と言う地球最大の犯罪行為は無くなさねば,此の地球そのものも無くなってしまうと思うのです。 |
ごまめの翁さん, 私も同じ事を思っていました、「アメリカの広島、長崎への原爆投下」があるなら、東京大空襲(参考:同名 早乙女勝元著)は二時間余で無辜の非戦闘員、女、子供を8〜10万人を焼き殺した、炭にしたのです、その写真は目をそむけてしまいます、しかもこの作戦は綿密に日本家屋を調べ、模擬テストをしています、そして的確に8〜10万の婦女子を焼き殺すことまで承知していたのです。 かなしいかな、大本営はこの事実を被害微小と発表して、記録らしい記録がない、当の米国には軍事記録があるのみです、早乙女勝元氏は30年前に被災者のなくならないうちにと、下町を歩いて聞き取り取材をしています。 東京大空襲は他の都市の空襲とともに広島、長崎に匹敵する戦争の罪悪です。 |
石頭さん どうも日本人は記録を残すのは好まない民族の様に感じます。 昨日も小六の年頃に生死を彷徨った来た経験のある弟が来て,自分が体験もしていないのに、いっかど自分が体験して来た様な事を云うと怒っていました。 戦争体験を語っている方は私も含めて年齢からいって実戦を体験しその実態を語れる年代では有りませんから,戦時中の社会しか話せません。しかし戦中以後に生まれた方は、人が書いたものとか話からです。此の事の善し悪しは別として、本当の体験を語って意見を述べる事の出来るのは,体験された本人しかいないと思うのです。 言葉の遊びと同じく聞いたり見たりしての意見も意見に間違いないのですが、中に一つクッションが入る事が多少異質に成ると思います。 |
詩・6 何だろう 戦争とは 何だろう 何処の国の 政治家も お国の 為だと 言っているが 自国のエゴや 自分のエゴで 死んでいくのは 普通の庶民 なんぼなんでも 不公平 お国の為だと 鉄砲持って 狙いを定めて 撃つ相手 撃つ国民も 撃たれる民も 国へ帰れば 只の人 平和であれば お酒を飲んで 仲良く話せる 地球びと 危ない 戦地に 送り込む 其れを決める 人々は 選挙で決めた 只の人 議員に成れば 偉く成り 此れは政府が 決めたこと 胸をはって 行きなさい 議員に成れば 偉く成り 庶民を戦地に 送り込む 話をするのに 料亭へ 危険な所へ 行くなれば 戦国時代の 武将の様に 先頭に立って 行きなさい |
昨夜NHKのBS2で義経の再放送を見ていたら、その次に「あの日 昭和20年の記憶」という番組をやっていました。 昨日は俳優の佐野浅夫さんが、「肉薄挺身隊」という訓練の話をされていました。 爆弾を背負って戦車の下にもぐりこんで、自爆する訓練だそうです。 「馬鹿な訓練だった」とおっしゃってました。 この番組は今後も毎日あるようです。 http://www.nhk.or.jp/bs/anohi/anohi.html |
▼MNG さん 死んだ兄も言っていました。 終戦の年は訓練する飛行機は無く。ベニヤのモーターボートで敵艦に体当たりする訓練ばかりだったと言っていました。 現代人は、自爆テロで驚いていますが,自爆は日本が本家で命を粗末にした行為です。 |
▼MNGさん: >http://www.nhk.or.jp/bs/anohi/anohi.html いいですね。気がつきませんでした。 このスレッドの総結集版ですね。 日曜夜 見ることにします。 MNGさん 有難うございました。 |
詩・7 イラクであった 無抵抗 寝ていた 市民に弾丸を 打った兵士は 怨めない あべこべ 撃たれる事も有る 其れが戦争 昔も今も 変わらない。 おんな子供も 敵になる 少しの 油断が命とり 其れが戦の 定めなの だから戦争 駄目なのよ 其れが戦争 昔も今も 変わらない。 若者が 犯した其の罪は 兵隊を戦地に 送り出す 大統領の 罪なのよ 見えない罪は 誰が取る やはり大統領が とりなさい 政治家の 隠れた罪は 地球の重さと 比べにならず 貴方の作った 法律で 多くの若者 地獄行き 其の時貴方は 何してる |
詩・8 昨年の広島の原爆の日に書いたものです. 建国いらい アメリカは 侵略されてた 経験なし 経験無いから アメリカ人は 戦争の無惨さ 判っていない だから戦争 賛成してる 真珠湾 日本が攻撃 したために アメリカ中が 頭に来 広島、長崎、原爆落とし、 無差別攻撃 正当化 其れが戦争 なんだけど 勝てば官軍 わしゃえらい 国に謝りたくないならば 無抵抗の 人々を 殺した罪を 地球が宇宙に 浮いてる限り これは絶対に なくならない 被害者にぐらいには 謝れよ |
辛いことを思い出して語るのはなぜですか? 何故か、理由など語りたくないことと思います。 でも、伝えて下さった方々に、お礼申し上げたい気持ちです。 |
先程、突然書き込んだりして、申し訳ありません。 思考混乱状態です。 皆様にお詫び申し上げます。 |