過去ログ

                                Page     328
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   通常モードに戻る  ┃  INDEX  ┃  ≪前へ  │  次へ≫   
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ▼戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/5/6(金) 13:38
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/5/7(土) 14:31
   ┃  ┣Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  k・satou 05/5/7(土) 15:29
   ┃  ┗Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/5/9(月) 6:57
   ┃     ┗Re(3):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/5/10(火) 8:23
   ┃        ┣Re(4):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  安本単三 05/5/10(火) 8:37
   ┃        ┣Re(4):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  昭和人 05/5/10(火) 9:18
   ┃        ┗Re(4):戦争体験を語って下さい4・思い出  ごまめの翁 05/5/10(火) 13:00
   ┃           ┗Re(5):戦争体験を語って下さい4・思い出  ごまめの翁 05/5/11(水) 5:40
   ┃              ┣Re(6):戦争体験を語って下さい4・思い出  桃李 05/5/13(金) 0:00
   ┃              ┗Re(6):戦争体験を語って下さい4・思い出  松林 05/5/14(土) 22:49
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  昭和 人 05/5/8(日) 10:00
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み/お礼と感想  とうろう 05/5/11(水) 9:27
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ぎみゆら 05/5/13(金) 20:53
   ┣Rミンダナオ島で、2人の旧日本兵が生存している?  ごまめの翁 05/5/27(金) 13:37
   ┃  ┗軍縮の道を  珠 05/5/27(金) 23:35
   ┃     ┣Re(1):軍縮の道を  ごまめの翁 05/5/31(火) 14:45
   ┃     ┃  ┗Re(2):軍縮の道を  昭和 人 05/5/31(火) 18:00
   ┃     ┃     ┣Re(3):軍縮の道を  パンドラ 05/6/1(水) 9:46
   ┃     ┃     ┗Re(3):軍縮の道を  ごまめの翁 05/6/1(水) 9:50
   ┃     ┣Re(1):軍縮の道を  ぎみゆら 05/6/2(木) 12:52
   ┃     ┃  ┣Re(2):軍縮の道を  パンドラ 05/6/2(木) 19:24
   ┃     ┃  ┣Re(2):軍縮の道を  昭和 人 05/6/2(木) 21:28
   ┃     ┃  ┗Re(2):軍縮の道を  ぎみゆら 05/6/3(金) 10:34
   ┃     ┃     ┣Re(3):軍縮の道を  パンドラ 05/6/3(金) 23:12
   ┃     ┃     ┃  ┗Re(4):軍縮の道を  ぎみゆら 05/6/7(火) 11:11
   ┃     ┃     ┃     ┗Re(5):軍縮の道を  パンドラ 05/6/10(金) 8:09
   ┃     ┃     ┃        ┗Re(6):軍縮の道を  ぎみゆら 05/6/12(日) 19:52
   ┃     ┃     ┗Re(3):軍縮の道を  団塊党 05/6/4(土) 20:12
   ┃     ┃        ┗Re(4):軍縮の道を  ぎみゆら 05/6/5(日) 17:46
   ┃     ┗永世中立国のスイス  コップ酒 05/6/3(金) 13:01
   ┣Re(1):久野海軍主計中将の配慮  珍 源斎 05/5/31(火) 18:11
   ┃  ┗Re(2):久野海軍主計中将の配慮  昭和 人 05/5/31(火) 18:49
   ┣Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/6/11(土) 9:09
   ┃  ┗Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  こんぺいとう 05/6/11(土) 10:22
   ┃     ┗Re(3):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ぎみゆら 05/6/12(日) 19:27
   ┃        ┗Re(4):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  こんぺいとう 05/6/13(月) 20:46
   ┃           ┣Re(5):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/6/14(火) 9:00
   ┃           ┣Re(5):戦争体験を語って下さい  昭和 人 05/6/14(火) 9:37
   ┃           ┗Re(5):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ぎみゆら 05/6/14(火) 20:53
   ┗Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/6/13(月) 10:49
      ┗Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ごまめの翁 05/6/21(火) 8:23
         ┗Re(3):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  昭和 人 05/6/21(火) 10:19

 ───────────────────────────────────────
 ■題名 : 戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み
 ■名前 : ごまめの翁
 ■日付 : 05/5/6(金) 13:38
 -------------------------------------------------------------------------
   戦前体験記

  珠様に【48360】で書いた様に、昔、人身売買?(年季奉公)について体験した事を書きますが,恐らく反論される方が居られるでしょう。しかし此れは私が見た現実ですあしからず。

 私の戦争体験記と云おうか昔の体験記は此の書き込みをもって終了したいと思う。
 此の様な書き込みをご覧成る方は少数だろう。しかし此れに反論される方は大勢居られると思う。だが見たものはみたものだから、体験記として最後に書き加える。

 私は人に聞いたり本で見た事の論議は、中に幾つかのクッションが有るので、其れが真実かどうかは私には判らないから,体験した以外は参考資料の一つでしかない。

 又,此れから書く事を皆さんが御覧に成っても,文書の一つに過ぎませんから,私と同じ感情や感覚には伝わらないと思いう。其れが現実ではないでしょうか。

前文に人身売買の事に触れる。
 物心が付いた頃から何となく人身売買があるというのは教えられなくても判っていた。
 それは、悪い事をした時に、母親に「○○は、ごまめ家の子供じゃない,人買いに売ってしまう」と泣きながら叱られた事が有り、子供心に自分は母に物凄く悪い事をしたのだなと思いました。何で叱られたのか思い出せませんが、今の時代に、母親が子供に此の様な叱り方をしたら問題になるかも判りませんね。

 当時、貧困な家庭の子供は小学校を卒業すると、年季奉公に行く友もいました。それは当たり前だったことで、昔は現在の様に経済的に恵まれていませんでしたから、貧困な家庭では何の抵抗も無く取り入れられていたのだと思う。

 以前、石頭の息子さんと電話で人身売買の事を話した時「ごまめさん。江戸時代から人身売買でなく,あの当時の遊女は年季奉公ですよ」と言われるのを聞いて、昔、元山(北朝鮮・うぉんさん)で年期を開けて帰って来た娘さんがいたのを思い出し此の事を調べてみて、女衒【ぜげん】という言葉を思い出した。よく考えてみますと時代劇には良く出てくる言葉だった。

以下のアドレスは人身売買の参考資料です。
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/jinshin.html
内容の一部を抜粋する。

〔〔日本の人身売買〕日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形で人身売買が行われてきた。古代の奴隷については、『魏志(ギシ)』倭人伝(ワ ジンデン)の「生口(セイコウ)」や『古事記』『日本書紀』の「奴(ヌ)」の記述によって知ることができる。大化改新の律令(リツリヨウ)文書に、奴 婢(ヌヒ)の制度に関する規定があり、当時稲1000束で奴隷を売買した記録が残っている。この奴婢は、荘園(シヨウエン)時代には農奴に転化した。戦 乱、飢饉(キキン)、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす人さらいや人買が横行した。また、人身を抵当にして金銭 の貸借が行われて、返済できない場合、人質を奴隷化することも生じた。江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、 性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。

【遊郭・遊×廓】
遊女屋の多く集まっている一定の区域。くるわ。遊里
人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。

 最後に年季奉公に付いて一言。
 私は、歯科技工士で、戦後間もなくは国家試験制度も無く、歯科技工士も殆ど居ない時代だったので、歯科医院に教えを乞いにまいりますと、月謝はいらないが、年季奉公迄つとめろといわれ5年間は盆と正月のお小遣いだけで、年季明けは13年後でした。現在の若者は此の現実をどうとられるのか。ひょっとしたら私が年季奉公の最後の人間かもわからない。

 兎に角、戦後60年の社会の移り変わりが大きすぎるという事だ。

 以下、次回から本文に入ります。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/5/7(土) 14:31  -------------------------------------------------------------------------
    続・戦前体験記

 当時を思い出し昔使った事のある朝鮮語も入れますが、思い出しながら書くので、不適切な言葉が有ればお許し願いたい。

小学校1年生の頃、チョウスンサラミ(朝鮮人)のキュチュベ(娘さん)が私の家にやってきた。

 銀行の小使さん(朝鮮の方)に、知人の娘をねえや(年の若い女中や下女を親しんで呼んだ語)に雇ってもらえないか、という事で雇ったそうだ。師範学校に入学する前に母が色々な事を話をしてくれた。此の事はこのねえやさんの家庭が貧困の為の口減らし(家計の負担を軽くするために、子供を奉公に出したり養子にやったりして、養うべき家族の人数を減らすこと)に雇ってくれないかと頼まれたのだと言っていた、
 色々話してくれた此の会話が私と母との最後の会話になり、戦後、満州の荒野を逃避中に死んで行った母の顔を見る事が出来なく成った。お前も昔だったら元服だからと色々な昔話をしてくれたと思うのだが、母の五感では此の子とはもう合えないと感じていたのではないだろうか母の心の中が知りたい。

 惨めな服装で、体中はシラミだらけ
虱(シラミ目の昆虫の総称。体は微小で扁平。腹部は大きく、頭部・胸部は小さく、翅(はね)はない。吸う口をもち、人畜の吸血害虫。アタマジラミ・ヒトジラミ・イヌジラミなど)。
 兎に角、雇うと決めた限りは、清潔にしてもらわなくてはと最初はお風呂を湧かし、着ていた服を脱がし、風呂に入れる事から始まった母の孤軍奮闘ぶりは今でも目に浮かぶ。当時も水道は有ったのだが、現在の様にガスなど便利な物は無く五右衛門風呂。薪で風呂を沸かし、私も小さいながら薪を焚き口迄一本ずつ運んだのを覚えている。

 従姉妹にあたる年頃の娘が遊びに来ていて、母の頼みでシラミだらけの服を庭で燃やしている。来ている物はみすぼらしく襤褸ぼろだが、シラミを退治するには、当時はDDTの様な良く効く殺虫剤は無いので燃やすか、煮詰めてから洗濯するしか方法がない。

 母は、ねえやと一緒に風呂に入り頭のシラミ退治に大童、毛虱退治は丸坊主にするのが一番だが、女の子だから可哀想だという事で、洗髪して、すき櫛で時間をかけて髪を梳いてしたようだった。虱を完全駆除出来る迄一週間くらい掛かっていた。長いお風呂に入った後は虱の卵が残っていると虱を貰うのでお風呂も大掃除。此の様な経験の無い方には見当もつかないだろう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : k・satou <cbl13464@nifty.com>  ■日付 : 05/5/7(土) 15:29  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:
 ご無沙汰いたしております。
  東京大空襲をむかえるたび私は国粋主義者になるといえば
   あのル・メイを写真で送っていただいたり
   その用意のよさに驚くとともに
   貴重な体験記を拝読させていただいております。

 丁度 韓国の国語の教科書にかならず載っているという
    ”序詞”を 伊吹郷訳で読んでいたところです。
    反日運動をしたとして
    28歳の若さで福岡刑務所で獄死した才能を 隣人は
    忘れないことでしょう。

 お元気で お身体をお自愛ください。


> 続・戦前体験記
>
> 当時を思い出し昔使った事のある朝鮮語も入れますが、思い出しながら書くので、不適切な言葉が有ればお許し願いたい。
>
>小学校1年生の頃、チョウスンサラミ(朝鮮人)のキュチュベ(娘さん)が私の家にやってきた。
>
> 銀行の小使さん(朝鮮の方)に、知人の娘をねえや(年の若い女中や下女を親しんで呼んだ語)に雇ってもらえないか、という事で雇ったそうだ。師範学校に入学する前に母が色々な事を話をしてくれた。此の事はこのねえやさんの家庭が貧困の為の口減らし(家計の負担を軽くするために、子供を奉公に出したり養子にやったりして、養うべき家族の人数を減らすこと)に雇ってくれないかと頼まれたのだと言っていた、
> 色々話してくれた此の会話が私と母との最後の会話になり、戦後、満州の荒野を逃避中に死んで行った母の顔を見る事が出来なく成った。お前も昔だったら元服だからと色々な昔話をしてくれたと思うのだが、母の五感では此の子とはもう合えないと感じていたのではないだろうか母の心の中が知りたい。
>
> 惨めな服装で、体中はシラミだらけ
>虱(シラミ目の昆虫の総称。体は微小で扁平。腹部は大きく、頭部・胸部は小さく、翅(はね)はない。吸う口をもち、人畜の吸血害虫。アタマジラミ・ヒトジラミ・イヌジラミなど)。
> 兎に角、雇うと決めた限りは、清潔にしてもらわなくてはと最初はお風呂を湧かし、着ていた服を脱がし、風呂に入れる事から始まった母の孤軍奮闘ぶりは今でも目に浮かぶ。当時も水道は有ったのだが、現在の様にガスなど便利な物は無く五右衛門風呂。薪で風呂を沸かし、私も小さいながら薪を焚き口迄一本ずつ運んだのを覚えている。
>
> 従姉妹にあたる年頃の娘が遊びに来ていて、母の頼みでシラミだらけの服を庭で燃やしている。来ている物はみすぼらしく襤褸ぼろだが、シラミを退治するには、当時はDDTの様な良く効く殺虫剤は無いので燃やすか、煮詰めてから洗濯するしか方法がない。
>
> 母は、ねえやと一緒に風呂に入り頭のシラミ退治に大童、毛虱退治は丸坊主にするのが一番だが、女の子だから可哀想だという事で、洗髪して、すき櫛で時間をかけて髪を梳いてしたようだった。虱を完全駆除出来る迄一週間くらい掛かっていた。長いお風呂に入った後は虱の卵が残っていると虱を貰うのでお風呂も大掃除。此の様な経験の無い方には見当もつかないだろう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/5/9(月) 6:57  -------------------------------------------------------------------------
   続々・戦前体験記

 母は娘時代、関東大震災に遭ったそうで、東京の学校で習ったと言っていたが、洋裁や和裁・料理を嫁入り前の娘さんに教えていたので、すぐに自分の古着を改造して此のキュチュベさんに着せていた。子供の私でも身綺麗にするとそのキュチュベさん別嬪で、母は手伝いに来た従姉妹に此の子は可愛い娘だねと話していたのを思い出す。キュチュベさん自分を姿を鏡に映して嬉しそうな笑顔は覚えてる。

 私は、子供の頃腎盂炎で、体調が悪い時は良く留守番をさせられた。其のためよく此のキュチュベさんと二人で留守番していたが、「いごりちょごりがっこり」と朝鮮の歌遊びをしてくれたのは、不思議に此の年に成っても忘れていない。

 処が半年程して、お正月にキュチュベさんを里帰りさせ一ヶ月程して、父親が娘を連れに来たのだ。母が一言二言何か言っていた様だが、いやがる娘を強引に連れてい帰ってしまった。其の時キュチュベさんの目には涙か一杯たまっていた。
 後年、母は此の事を話してくれ、小綺麗に成ったので高い値が付き人買い(女衒)売られたのだと言っていた。

 それから一年程して、やはり銀行の小使いさんに頭を下げて頼まれたと、キュチュベさんを連れてきたが、此れも一年足らずで先のキュチュベさんと同じ運命を辿った。

 その後は母は絶対に朝鮮人の娘さんは雇わないと決めたようだ。大切に預かり小奇麗に成ったら親が娘を売ってしまう。高く売る為に手を貸す事は出来ないし余りにも不憫だと、二度目の事が有ってからは女中さんを雇うという事は止めてしまった。

 だが、現代の日本では平気で子供を殺す親が居る。考えると殺すより売る方が人間的かも判らない。

 当時は日本人でも貧困のため年季奉公に出され遊女に成る女性も沢山いたと思う。と云うのは父の転勤で行った都市には、置き屋、遊郭、所謂、色町は必ず有った事が証明だろう。
 でないと遊郭にいた女性の説明は出来ない。今の時代の若者に遊郭を説明するのは至難かも。とにかく当時は年季奉公の名の下に人身売買は正当化されている時代だったのだ。
 戦後、昭和33年迄は遊郭があり、地元でも多少知られた方が遊郭の亭主をしていて法律が改正に成ると、遊女達を帰さなければ成らないが、一人一人条件が違うので困っていると話していた。
 父は四つの小都市に転勤した。小都市だから日本人専門街はなく朝鮮の人々と混在なので、多くの朝鮮の人々との交流が有った。
 
 初めの転勤地、吉州である時、娘さんが男に手を引かれ泣きながら連れて行かれる光景をみた。其の時の女衒は朝鮮人で家族や一族が「アイゴーアイゴー」と泣いている。そして親の手の中には一円札束が握られていた。

 近年、慰安婦問題で強制連行が云われているが、私が見たこの光景は強制連行ではないと思う。
一つ・連れて行った人間が、同じ民族だと云う事。
二つ・親や一族がお金を手にして泣きながらでも送っている事。
三つ・私は何度か犯罪を犯した者を逮捕し連れ去る時に官憲に対して一族が物凄く抵抗をするのを見ているので、連行されるのであれば何らかの抵抗が有ると思う事。
 同じ様な光景は、恵山鎮でも見ている。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/5/10(火) 8:23  -------------------------------------------------------------------------
   続々々・戦前体験記

 戦後、何時だかは知らないが従軍慰安婦という言葉が出はじめた。従軍慰安婦と云う言葉は当時聞いた事がない。

話は核心に触れます。

 私も前線の後方に遊郭が有ったのは知っている。確か私は此の人々をピーさんと読んでいた記憶が有る。そこに働いていたのは日本人ばかりでない事は、引揚げて帰った時2ヶ月程世話になった処で、軍人相手の遊郭で稼いでいた人から(此れだけは判らないが、此の方は家計を助けるために志願して娼婦に成ったと言っていた真偽のほどは判らないが、身売りだったら戦後直ぐには自宅へは戻れないはずである)日本人だから将校ばかりが相手にしたと話を聞きて朝鮮人の遊女がいたのを聞いた。
 此れはあくまでも聞いた話だが本人からだから、100%信用できなくても80%は本当だと思いう。

 先に書いた様に、私の見た限りは人の売り買いだけだ。朝鮮人の女衒が何か裏の組織や軍とつながりが有ったかは判らない。もし其の様な組織が有ったならば、もっと奥深いところで庶民の目に付かないところでやっていると思いう。

 私は男ですから男の性に付いては判る。戦地に行って極限状態に成ったら人間はどうなるか、私は経験が無いから語れない。ただ思ったままに書くと、いつ死ぬか判らない極限状態に落ち入ったら、死ぬ迄は男だから女性を抱きたく成るのかなと思う。
 これは私の気持ちで、他の男性はどうだか判らないが、此の男性心理は女性にいくら説明しても判らないと思う。

 戦後、日本の婦女子を集め一時期占領軍の兵士を慰安するところを作ったと聞きく。記録を残していたが古いので何処にしまったか判らないがWebの何処かには出ているのではないか。
 又、戦後夜の女(パンパン)と言われた女性が居た。此れ等の女性は生活のために春をひさいでいたのだから終戦直後の日本経済時容態が悪かった証拠にも成り、この女性の方々の為に一般女性が救われた面もあると私は感じている。
 それは平和な沖縄で過去10.000以上のレイプ事件が記録されている事でも判るのではないか。

 兎に角、戦争とは、男とは此の様なものだと私は思う。私が終戦直後此の問題を書いたとしたら、絶対に強制連行はないと書いただろう。だが落着いて世相をみると、それは有ったのではないかと思う様になった。
 拉致家族の様に本人や家族の知らないうちに、連れ去られる事例も有るかも判らない。騙されで連れた行かれたのも有るのではないかと思う。だが私は売られて行った女性しか見ていなかったのも事実なのだ。

 歴史は一つしか無い。もし一つの立方体でも複雑なものは見る方向によって形は違う。

 戦争には虐殺は付きものだ。今正義と云われて各地で戦っているアメリカもイラク側の情報を聞くと私は現実を見ていないから断言は出来ないが、虐殺は有った感じがする。戦いは手段を選ばない、これは戦に付きものだで、奇麗な戦いは絶対にあり得ない。

 だから南京虐殺は有ったと思う。ただその規模と人数の問題だ。弟が露天掘りの石炭炭坑の穴に、700名程の死亡した避難者を投げ込み埋められたと言っていたが、700名でも大変な数だったとも言っている。私は30万人と云われる被害者の遺骨が見つかれば100%南京大虐殺は中国の云う通りだと思うが、私の中では3対7で疑心暗鬼状態だ。
 だから戦争はしてはいけないと云うのが私の持論なのだ。

 事実は一つしか無い。真実も一つだ。ただ其れを見る方向、角度、精神状態で全く違うものが見えると思う。歴史問題でもどこの国家も都合の悪い事は隠ぺいする傾向がある。それが真実を有耶無耶にしていると私は思っている。
 私も戦時中の真実いや歴史の真実が知りたい。

 ただ、人に聞いた事や書いた事を真実と思わないでほしいと思う。最近はこの類いの話が多いので危惧している。

 後二回・面白い楽しい、阿呆みたいな思い出をお送りして私の体験記を終わります。
 私の体験記は、全文保存してあります。しかし今後は昔の事については書く事は致しません。戦争のため父母や妹を亡くし、思い出すのも辛い事も有りますが、もう一つ、何か空しく成ってきましたから。
 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : 安本単三  ■日付 : 05/5/10(火) 8:37  -------------------------------------------------------------------------
   ごまめの翁 さま

連載、ありがとうございました。
よく分かりました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : 昭和人  ■日付 : 05/5/10(火) 9:18  -------------------------------------------------------------------------
   書き込みをありがとうございました。
心情をお察しします。
しかし体験談(見たこと、聞いたことも含む)は正直に語るべきだと思います。
特にこの老人党掲示板では。生きて語り、書ける間は。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):戦争体験を語って下さい4・思い出  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/5/10(火) 13:00  -------------------------------------------------------------------------
    思い出・1

 難しい話は此れくらいにして、心の和む話を書こう。
 吉州の出来事である。隣は銀行の支店長をされている東大出の朝鮮の方だ。

 此処の家の娘さんが結婚されると云う事で、次席の父は、当たり前の話だが、朝鮮の仕来りに合わしお祝いを持参したらしい。

 処が、結婚式の早朝、隣の美人の奥さんが、5人女性を従えて料理もってやってきた。

 部屋一杯に料理を並べ料理の説明を始めたのである。見事な料理だが我が家は父がニンニクが苦手で、朝鮮料理は、シンセンロ(ニンニクは入っていなく唐辛子も入ってない絶品の鍋だが、戦後テレビで一度だけ韓国宮廷料理の放送で紹介したのを聞いた。何故だか此れ一回のみ、私は母に作り方を教わっているので若い時には作っていたが、手間とお金が掛かるので現在は紛い物で誤魔化している)という宮廷鍋料理しか食べなかったのだが。
 父も母も神妙に説明を聞いていた。

 あるゼリー状料理の説明に
「奥さんイゴキシニガイサソヨ(此れは力が付きます)と言っての説明は「サンチョネ(何だか判らない)と牛の玉タマちゃんを三日三晩煮込んだ物で手間のかかった料理と説明してお帰りに成った。

 考えると牛の睾丸だから力が付くのは当たり前かも判らない。母が私達に「食べてごらん」と言っても子供とて説明を聞いているのだから食べられない。
 結局、銀行の小使いさん(先に書いた朝鮮の娘を女中に雇ってと行って連れて来た同じ人物だが父が転勤する度に付いて来たようだ)
 「隣の奥さんに悪いのだが、内緒にしてと、食べられない料理をもって帰ってもらう事に成った。
処が此の特別料理。
 「奥さん此れは戴くわけはいけない。私たち貧乏人には一生口に出来ない料理」だと言うのだ。
 「気にしないで持ってかえって、ただ李(支店長)さんにはくれぐれも内緒にね」
 父を心酔している小使いさん。
 「おくさん絶対口には致しません」
と平身低頭して帰ったが、翌日、
 「母ちゃんが、此の様な高価なものただでは頂いたら罰が当たると言うので」
と二円持って、どうぞ受け取ってほしいやって来た。母の説得でやっと帰っていったのだが、当時の二円とは大金で、今此れを書いていながら、食べてみたら良かったかなと思っている。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):戦争体験を語って下さい4・思い出  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/5/11(水) 5:40  -------------------------------------------------------------------------
   思い出・2

 小ちゃな町だから出征兵士を送るのは私たち小学生の務め。鎮守の森に出征兵士を迎え武運長久を祈るのである。

 当時の邑長さん朝鮮の方で、高齢なので日本語の発音がもう一つ。最後に万歳三唱をする。
 「デンノウヘイカ、パンチャーイ」と
 三唱したのは良いのだが、誰とも無く
 「デンノウヘイカ、パンチャーイ・パンチャーイ・パンチャーイ」
 と訛ったまま全員がやったので、どっと笑いが揚がった。

 学校へ帰り全員講堂に集められ。
 「邑長を馬鹿にする行為は許されない。しかし、お前たちのあの態度は天皇陛下にを馬鹿にした行為で絶対に許されない」と板の間に正座をさされ。4時間程説教をされた。
 よく考えると天皇陛下より朝鮮民族を馬鹿にした行為いだ。


 思い出・3
 最後に子供はどこから生まれるか。

 先にも書いたが、両民族が混在して生活しているので、仲良く成ると人間同士のつきあいで人種等は関係がない。
 夏休みの暑い時、吉州(現在はどう呼ばれているか判らないが、当時は大きなパルプ工場が有った土地)此処で、朝鮮の新婚さんの初産が有った。産婆さんは出産が重なって来れないと云う。
 妊婦さんの親類や近所の者が相談したあげくに、母の処へ助け舟をもめて来た。深夜に呼ばれて母は飛んで行った。朝迄経っても生まれない。自宅の直ぐ横で狭い家だから、励ましや叫び声が聞こえてくる。
 こんなに苦しんで、子供ってどこから生まれてくるのか気にも成る、弟と二人で出産のお宅の横から入り、戸の張り紙を指に唾を付け穴をあけ覗いたのである。其処で見た光景は想像して頂きたい。
 兎に角子供が頭から出てくるのを見て吃驚仰天、音を立てたので母親に気付かれてしまった。
 助産婦さんの代理を無事終わって皆さんに喜んでもらったのだが、帰宅した
母に首の根っこを掴まれ、お臀を嫌と云う程たたかれ、柱に縛られたのである。先日弟に此の事を聞いくと良く覚えていて、不謹慎だが大笑いした。

 戦前戦中の感じでは、戦前と大東亜戦争時代の日本政府が朝鮮人に対しての扱いは聊か変わった感じがしている。戦中後半は、弾圧は感じられなく成った気がしている。私は当時の軍がもし朝鮮で暴動でもあれは戦えないと感じたからではないだろうかと思っている、此れはあくまでも私の体感だ。

 兎に角、民族同士で個人個人の付き合いは人間としての付き合いが出来る。何故だろう、其処に行政と云う難しいものが入り込むと、人間社会は難しいものになり、それが戦争につながる。人類とは、民族とは、人間は、はたまた難しいほ乳類である。

 此れで私の戦前戦中の話は終わります。
 先にも書いた様に、以後は昔の楽しい話は書きますが、悲しい淋しい恐い話は書く事を止めます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):戦争体験を語って下さい4・思い出  ■名前 : 桃李  ■日付 : 05/5/13(金) 0:00  -------------------------------------------------------------------------
   ごまめの翁さま

ご自分とお母様や弟様などの戦争体験のようすを丁寧に読みやすい量と内容にまとめて
書きつづってくださって、ほんとに、ありがとうございました。
あとでまとめて私も保存しようと思っているのですが、昨日パソコンのハードディスクをウィルスにやられて、私のパソコンは壊れてしまいました。

実は老人党に書き込みをするようになってから1年ですが、その間にもう2台パソコンが壊れまして
それまで何もなく使っていたので、ちょっと不気味に感じています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):戦争体験を語って下さい4・思い出  ■名前 : 松林  ■日付 : 05/5/14(土) 22:49  -------------------------------------------------------------------------
   「護憲+」と重複投稿です。

ごまめの翁様

戦争体験者の証言、読ませていただきました。 大変貴重なお話をありがとうございました。敗戦直前の朝鮮での、日本人一家と朝鮮の人たちとのさまざまな関わり、いままで聞いたことがありませんでした。
実はその時期,京城にいた友人がいるのですが、やはりなんとなくあの時期の生活を聞くのははばかれるのです。 翁さまご一家のように、人間と人間の付き合いをしていらした方ならいいのですが、そうでなかったら間が悪いと思ったりするものですから。
直接のご体験からいろいろなことが見えてくるこういうお話は、できるだけ多くのかたに知っていただきたいとおもいます。
でも翁さまには、ご一家のよき時代だったがゆえに思い出されるのもおつらかったかもしれません。 ほんとうにありがとうございました。

お話の中にあった、パンパン、わたしもみています。
実家の藤沢の借家が建物疎開―――戦争末期、軍需工場へのトラックが行き来するのに便利なように、道端の民家を壊すこと、学校の周囲を空けるためもあったーーーにあって、終戦後横須賀の親類の家に間借りしていました。 
町にはアメリカの水兵が闊歩していました。 夜、駅を降りると、物陰にひっそりと女の人が立っています。 水兵が通りかかると、「ハーイ」などと声をかけ、話が成立すると、腕を組んでどこかに消えてゆきます。 お化粧も服装も思い切り派手でした。
近くの家には、「オンリーさん」が下宿していました。 一人の米兵だけが通ってくる女の人で、たいていパンパンだった人です。
こういう人たちを、私たちは馬鹿にしていました。 後になって、あの人たちも戦争で家族や家を失って、生活のためにやっていたのかもしれないと思ったり、あの人たちがいたおかげで私たちが襲われずにすんだのかもしれないと思ったりしましたが、後の祭りです。
あの頃は、自分たちの生活で精一杯でした。   


 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : 昭和 人  ■日付 : 05/5/8(日) 10:00  -------------------------------------------------------------------------
   戦争中 私の家族や周辺での当たり前の話を思い出しました。
商人の家では「丁稚奉公」と「年季奉公」はどこにもありました。
長男には他人のめしを食わせて実地教育をし独り立ちできるようになってから我が家に戻し鍛えて、跡継ぎとする。
適応できる子がいなければ婿をとって跡継ぎをつくる。
見返りの給与はなし、教育料としてむしろ働くほうが謝礼するのが当たり前でした。お盆のときに我が家に帰省します。
 一方年季奉公は女性が商人または旧家などへ嫁がせる場合に家庭見習いとして、(主婦見習い)として信用のある知人宅などへ娘を預けます。
これも無償でむしろだすほうが謝礼をしていました。

以上が私の兄も姉のやらされていました。(当時の世間常識です)
そのような良き文化が曲がってくるとごまめの翁さんの報告のようなことになってくることもあると思います。

私の見てきたことも人身売買となる危険性は十分ありました。
そのような実体験者本人は今日も、あしたも死んでいっています。
生き残りが語り伝えなければなりません。
以上は戦争とは関係薄いと思いますがどこにでもあった戦争時代の話でした。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み/お礼と感想  ■名前 : とうろう  ■日付 : 05/5/11(水) 9:27  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:おはようございます。

以上のお話を読ませて頂きました。

今後は、辛い話はお止めになるとのことです。

しかし、反面教師ならぬ反面事項として折に触れ話されることを期待しておりますが無理なのでしょうね。

前に、漫才師の喜味こいしさんが「原爆被災者」であって、あまりにつらい事なので話さなかった、私は「語タラン部」だと言っておられるところだけTVで見ました。

さもありなんとも思いました。が、語ることも必要かと感じた次第でした。

貴重なお話を聞かせていただいたことにお礼かたがた感想を述べさせて頂きました。

宮廷料理食べずに惜しかったですね。

失礼を申しました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/5/13(金) 20:53  -------------------------------------------------------------------------
   ごまめの翁 様


戦時のご体験、掲載のたびに読んできましたが、先ほどあらためて、
通して読みました。

近々、父と一緒に長崎に行くことなりました。墓参りなどもあるの
ですが、なるべく時間を作って、「そのとき」の場所を実際に見に
行ったり、そういうことをできるだけしてこようと思っています。

数々の貴重なお話を、根気づよく書いていただき、心よりお礼を
申し上げます。本当に、ありがとうございます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Rミンダナオ島で、2人の旧日本兵が生存している?  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/5/27(金) 13:37  -------------------------------------------------------------------------
    今日の朝刊で
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20050527/K2005052700970.html

日本大使館員が現地入り 「旧日本兵」2人と会見へと載っていた。
 新聞記事は早く消去されますので抜粋すると、

 フィリピン南部のミンダナオ島で、2人の旧日本兵が生存しているとの情報を確認するため、マニラの日本大使館員は27日朝、同島ジェネラルサントスに着いた。市内のホテルで2人と面会し、事情聴取を始める予定。

 政府関係者によると、同市付近の山中に、旧日本兵を名乗る2人がいるとする情報が、ミンダナオ島に住む日本人から在マニラの日本大使館に寄せられていた。大使館員は2人の身元の特定を急ぐほか、暮らしぶりなどについて詳しく事情を聴く。

と云う事だ。

 此れが本当でしたら実にご労しい話で戦争は如何に愚かなものか。戦争と云うものは当事国の何かの要因がないと起こらない。そして勝っても負けても犠牲者は庶民なのだ。

 だから宣戦布告をした国家の元首は昔の侍大将の如く一族郎党を引きつれ率先して戦地に赴き第一線で戦うべきだろう。戦争を始めた張本人一族が温々と毎日温かい御飯を食べるのは私は許せない。

 昨今、軍を強大なものにして国を守ろうと云う人々が増えて来た。もし日本が此れを選択して軍の整備を行うなら、他国も同じく軍備拡充するイタチごっこで昔と一緒だ。此れがどの様な影響を及ぼすか。穿った見方をすれば地球破滅を促進するだけだ。
  軍備の増大は、戦争の引き金に成る事は間違いない。
 戦争、所謂、人殺し行為は、憎しみが残るだけ、イスラエルでもイスラムでも古代の憎しみが現代まで生きている。近くは日本が起こした戦争の憎しみが被害を被った国々残っている。
 だから私は戦争を拒否するのであり、武力では表面は平和に成っても真の平和はあり得ないと思うのであり、もしイラクが表面上平和に成っても国民の中にはアメリカを憎しの心は消えないのではないだろうか。
 偉そうに事述べている私も、戦勝国のアメリカに憎しみがないとはいえない。やはり憎しみは残っているのが事実だ。

 私は平和の選択肢に、地球よりあらゆる武器をなくなす選択肢も有ると思う。折角、戦後アメリカ主導で創られた日本憲法と云えども、憲法9条で戦争を放棄した。それは永遠に日本は人殺しの道具に成る武器をも放棄して事に成ると私は解釈するのである。

 此の選択肢に付いて、現在は戦争放棄に批判する国家や日本国民もあると思う。しかし人類が健全な地球の哺乳類であれば、此の事に気が付き日本に右へ習えする国々も増えてくるのではないだろうか。ですから武力で勝ち得た平和は真の平和ではなく憎しみが残る平和と解釈するのである。そして武力のない物静かな平和は憎しみのない真の平和だと思うのである。一世紀かかるか二世記かかるか判らないが、地球上に真の平和を望むなら此のくらいの覚悟は必要なのではないか。
 

 お断りするが、此の様な書き込みは批判が付きものだ、書かれるのはご自由ですが、ROMはしますが返信は致しません悪しからず。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 軍縮の道を  ■名前 : 珠  ■日付 : 05/5/27(金) 23:35  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:
>フィリピン南部のミンダナオ島で、2人の旧日本兵が生存しているとの情報
>此れが本当でしたら実にご労しい話で戦争は如何に愚かなものか。戦争と云うものは当事国の何かの要因がないと起こらない。そして勝っても負けても犠牲者は庶民なのだ。

息子が、「あの横井さんがジャングルの日々を聞かれて『楽しいことは何もなかった』と語っていた。楽しいことがないなんてホントに大変な、悲しい人生だね」と言いました。ほんとうに何と苦しい人生をこの人たちに強いたことでしょう。平和な日本を見て、彼らはどう思うことでしょう。

残留孤児のニュースを見てもそう思います。この帰国者たちにはもっと援助をすべきだといつもいつも気の毒でなりません。

>軍備の増大は、戦争の引き金に成る事は間違いない。
>私は平和の選択肢に、地球よりあらゆる武器をなくなす選択肢も有ると思う。折角、戦後アメリカ主導で創られた日本憲法と云えども、憲法9条で戦争を放棄した。それは永遠に日本は人殺しの道具に成る武器をも放棄して事に成ると私は解釈するのである。
>
>此の選択肢に付いて、現在は戦争放棄に批判する国家や日本国民もあると思う。しかし人類が健全な地球の哺乳類であれば、此の事に気が付き日本に右へ習えする国々も増えてくるのではないだろうか。ですから武力で勝ち得た平和は真の平和ではなく憎しみが残る平和と解釈するのである。そして武力のない物静かな平和は憎しみのない真の平和だと思うのである。一世紀かかるか二世記かかるか判らないが、地球上に真の平和を望むなら此のくらいの覚悟は必要なのではないか。

おっしゃる通りだと思います。理想を忘れてはならないのです。軍縮が行き詰まっているとニュースで聞いたばかりです。現実がどんなに遠くても、足下を見つめて歩むと共に、理想を忘れてはならない。平和を望むなら、軍備を拡大してはならないのです。今より少しでも平和に近付けたい。軍備縮小こそ私たちが次の世代に贈るべきものです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):軍縮の道を  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/5/31(火) 14:45  -------------------------------------------------------------------------
    これは今までの経緯から護憲と同時転載させて頂きます
珠さん

 私の体験記は、実戦に参加する歳では有りませんから、当時の一学生から見た戦争体験記で、政治が介入した戦争と云うものが、個人としては何の利害のない人々が戦う(殺しあう)行為が極普通の国民にどの様な影響を与えるのか、愚かな世界の指導者たち、この簡単な計算1ー1=0が判らないのでしょうか。

 犬でも虐めていると、その人の気配を感じるだけで牙をむいてきます。しかし可愛がって良い環境にいる犬は誰にでも穏やかです。
 人類も動物ですから命に関わる暴力には憎しみしか残りません。それが顕著に現れているのが中国ではないでしょうか。

 先日、体験記にも書きましたが小学校6年生で3年生の妹と二人だけで返って来た弟が散歩の途中立ち寄り、少し当時を語ってくれましたので書いてみます。

 逃避中にソ連軍に追われ、幼子を抱えた母親は子供に泣かれ
「静かにさせろ、見つかったらどうする」
と殺害を強要されていたそうです。

 そして葫蘆島よりの引揚げ最終船に弟たちのグーループで子供だけで乗船していたのは自分だけで、日本上陸後、子供だけで家族ではないからと援護金も家族としては貰えず、孤児だからと施設の紹介もなく、今の拉致家族の方とは偉い違いだと笑っていました。
 帰って来た兄妹は其れはそれは凄い格好で、栄養失調状態、体中は疥癬で彼方こちらから膿みが出ていました。その疥癬兄妹が抱き合って一日泣いて泪も涸れ、かえって気分転換ができたと今考えればそう思います。

 ここで日本人と云うか私には不思議に思うのは、兄妹で逃避中に妹を置いて行けという中国の家庭が多く有ったと云う事実です。悪く見れば女性はお金儲けに成ったのでしょうか。中国の歴史には関心がなく知りませんがどうなんでしょう。

中国には
纏足・てんそく
 【中国で、女性の足を大きくしないため、子供のときから親指を除く足指を裏側に曲げて布で固く縛り、発育をおさえた風習。唐末ごろに始まり、宋代から流行したが、清末に廃止運動が起こり、清滅亡後消滅した。】
と書いています。

 その纏足、若い女性には見られませんでしたが、子供の頃中年以上の中国のお金持ちの女性に、結構見る事ができました。当時、追いかけて来ても纏足ですから走れないのを面白がり囃し立て逃げた事が有り、母親にこっぴどく叱られた事が有ります。

 当時、母の纏足の説明は
「足が普通だと、逃げられたら困るので、足が大きく成らない様にお金持ちは足を縛って大きく成らない様にしているよ。」それと小さい程ベッビンさんだと言っていましたが半分くらいは当たっているのでしょうか。

 話は脱線しましたが、中国の方は何故だか子供、特に女の子を欲しがり、泣く子を殺すよりはと、中国の家庭に置いてきて、5升程の粟や雑穀と交換した家族も有ったと言っていました。
 又、栄養失調で死なすより、子供を助ける事を優先すると其の選択になり誤っていないとも言っていました。親が生きて行く為に5升程の雑穀と交換する人も居たそうで、人として親としては究極の選択、此の様に惨い親としての究極の体験をされている方に当時を語れと云うのは、惨すぎるし、語る人は皆無に近いのではないかとも言っていました。

 それとソ連兵は女性には目がなく、レイプされた女性は結構居たが抵抗して殺された女性もおり、其の方達は現在では、もう可成りの年配成られていると思うが、此の様な経験は語るはずがないとも言っていました。

 私たち兄妹が、戦後行政の世話にならず生活出来たのは、子供でも労働力として雇ってくれた店が有った事で、弟は敦賀の海産物問屋で小学校も行けず、手がきのとろろ昆布を作り。私は京都の小さなお店で製粉や麺作りをしていましたが辛い時代でした。

 今、紛争地で親のない子供たち、其れから死んでいった子供達、生きているのが幸福か、死んでしまったのが幸福かは私には判定はしかねます。

 兎に角、後世の子供達には、私と同じ思いはさせたくはありません。九条が有っても軍隊が有ります。憲法が改正され九条が無くなると益々軍拡にエスカレートすると思います、ですから改憲は何とか阻止しなければ。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):軍縮の道を  ■名前 : 昭和 人  ■日付 : 05/5/31(火) 18:00  -------------------------------------------------------------------------
   これを見ている方へ
「自衛のために軍隊が必要だから憲法9条は変えるべきだ」
「国際貢献のために自衛隊を海外へ派兵すべきだ」

などいう人が多い(民主党も)が、このようなことが わかって ないんですよ。
旧満州からの引揚者(私の叔父、叔母、従妹がそうでした。)も、体験者(覚えている人)は、もう70歳以上になりました。
関東軍は民間人引揚げ者を守りませんでした。ソ連批判はできますが、
結局 戦争が悪いのです。
ガダルカナル島戦の体験引揚者は80歳以上になりました。
今の人(政治家)はせめて 映画でも見て感じて欲しい。
戦争の痛ましさを。

そうしたら憲法9条は固守すべきであることが 解るはずだ。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):軍縮の道を  ■名前 : パンドラ  ■日付 : 05/6/1(水) 9:46  -------------------------------------------------------------------------
   ▼昭和 人さん:

おはようございます

>これを見ている方へ
>「自衛のために軍隊が必要だから憲法9条は変えるべきだ」
>「国際貢献のために自衛隊を海外へ派兵すべきだ」
>
>などいう人が多い(民主党も)が、このようなことが わかって ないんですよ。
>旧満州からの引揚者(私の叔父、叔母、従妹がそうでした。)も、体験者(覚えている人)は、もう70歳以上になりました。
>関東軍は民間人引揚げ者を守りませんでした。ソ連批判はできますが、
>結局 戦争が悪いのです。
>ガダルカナル島戦の体験引揚者は80歳以上になりました。
>今の人(政治家)はせめて 映画でも見て感じて欲しい。
>戦争の痛ましさを。
>
>そうしたら憲法9条は固守すべきであることが 解るはずだ。


私も同じような話を聞いた記憶あります

今から20年以上前、私が勤務いたしておりました歯科医院で
聞いた話ですが、50歳を越えておられたドクターは
戦前に、満州で生まれ、お父様が満鉄に務めておられたのだそうです。

敗戦も近くなった頃、何があっても、陸軍の兵隊さん達が自分達を守ってくれていると、満州に住んでいた日本人の人達は安心し、頼もしく思っていたのに
いざ、敗戦となり、ソ連軍が満州へ進行して来るという噂が立つより早く
ある朝、気が付いたら軍人の姿は街に一人もいなくなり、民間人だけが
取り残され、置き去りにされたというは話を聞いたことがあります。

それからご家族共々、筆舌に尽くしがたい思いをして満州から引き上げ、医療の道を志し日本で開業し医師となられたようです

あの当時中国残留孤児の方達のニュースがマスコミを賑わしており
それを目にしたドクターが
「もし、私の両親が私達、兄弟、姉妹の一人でも連れ帰ることを
 あきらめたら、私も同じ運命を辿っていたかも知れない」
とおっしゃっていた言葉が今でも記憶に残っています

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):軍縮の道を  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/6/1(水) 9:50  -------------------------------------------------------------------------
   昭和 人様

 書き込み有り難うございます。有名人でもない平凡な人間の体験記は見る人は少なく、一人でも見て頂いたと云う事は嬉しいかぎりです。

 世界の政治を司る種族の人種は何で馬鹿者ばかりかなと感じる時が有ります。

 アメリカはニューヨークのテロを暴力で解決しようとしました。しかし、此れまでアメリカが世界各国に軍隊を送り軍の力で押さえ込み、悪影響をあたえていたのを忘れています。そして其の附けが、テロと云う暴力で仕返しされたと思のです。この一つの事件を見ても力では平和は来ないと思うのです。

 もう一つ私は無神論者です。強いて神が何かと云われたら此の大宇宙で、宇宙の自然にはアメリカと云えども逆らえません。

 もう一つ世界のもめ事の殆どは宗教が絡んでいると思いませんか。
 無心論者の私が云うのも烏滸がましいのですが、世界中に多々ある宗教家は
1・他の宗教を非難、冒涜をしないこと
2・他宗の聖域を侵さないこと
3・己の宗教を押し付けないこと
 此の単純な約束ごとを守るだけでも暴力(戦争)は無くならないとは云わないまでも少なく成ると思うのです。

先日アメリカで
コーラン冒とく、FBI局員のメモに記載
 米国の看守らはコーランをトイレに流したと非難していたことが分かった。

と新聞に有りましたが、もっての他で、アメリカの驕りを感じるとともに此れでは何時まで経っても平穏な地球には成らないと感じましたが如何でしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):軍縮の道を  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/6/2(木) 12:52  -------------------------------------------------------------------------
   ごまめの翁さん、昭和 人さん、パンドラさん、珠さん、
このスレッドをご覧になっているみなさん、こんにちは。


昨6/1付け日経新聞夕刊の一面に、猪口邦子さん(上智大学教授、
国際政治学)が「NPT決裂に思う」と題するコラムを寄せています。
短い文章のなかで、たいへん本質的で重要な指摘をしていると、私は
受け止めました。日経新聞をお読みになれる方、ぜひお読みになって
ほしいと思います。

2002〜04年軍縮会議日本政府代表部特命全権大使で、ジュネーブで
同軍縮会議の議長も務めた猪口さんは、「大使として力を尽くした
多国間軍縮が暗転していくのを哀しみをもって知る」と書き起こし
ています。(日本経済新聞2005年6月1日夕刊より、以下引用元同じ)

自分が軍縮大使として携わった生物兵器禁止条約再検討会議の過程を
振り返り、こう言います。「外交現場でまず発見したことは、日本が
主導権をとらない限り、世界の軍縮は進まないということである。
軍縮とはそもそも、世界が夢中になるテーマではないが、被爆国日本
には推進国としての特別の役回りがある」

しかし今回のNPT交渉と同様に、アメリカと非同盟諸国が鋭く対立。
初日から決裂という経過のなかで、「議長国ハンガリー等と水面下で
条約強化案を調整」「米国は非同盟諸国との一切の交渉を拒否して
いたが、日本大使館公邸でなら応じるという」等を経て、生物テロに
関する条約強化文書が全会一致で可決された内幕を報告しています。
また、「先の大戦を思えば、生物兵器禁止のために日本大使が腐心
するのを中国に見てもらいたいという密やかな思いもあった」とも。

私たちの国は、人類史上ただ二度、原子爆弾を使用した攻撃を受け、
二つの町が微塵に砕け、燃え尽き、数十万人が死に、数十万人が
いまも苦しんでいる、世界でただ一つの核兵器被爆国です。その
日本が、それなのにともいえるし、それだからこそといってもいいの
ですが、いまは国際平和主義を国づくりの根幹に据えている。

だからこそ、非同盟諸国も、アメリカも、中国も、国際平和、軍縮
というテーマでは、日本には一目を置いている。軍縮特命全権大使
として駆け回った猪口さんの報告は、そのように読み取れます。そう
いった、いまの日本の国際的な立場、そのかけがえのない貴重さと
重要性に、いちばん無頓着で無神経なのが、たいへん残念なことに、
日本人自身、とりわけ、自分たちの都合だけで無邪気に平和憲法を
いじくりまわそうとしている人たちなんじゃないのでしょうか。

唯一の被爆国であることの国際的な意味。半世紀にわたり平和憲法の
もとで国づくりを進めてきたことの値打ち。世界各国がそれを相応に
認めていることの重み。戦争不法(戦争は政治の一環などではなく、
けっして起こしてはならない絶対悪である)は、21世紀の世界的な
流れであると聞きます。日本には、そのような潮流を率先して推進
していく役割、その資格も、責任も、あるのではないでしょうか。

そのために、平和憲法に、目先の都合で、小手先の改変を加えたり
しては、けっしていけないのだと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):軍縮の道を  ■名前 : パンドラ  ■日付 : 05/6/2(木) 19:24  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ぎみゆらさん:

こんばんは

>昨6/1付け日経新聞夕刊の一面に、猪口邦子さん(上智大学教授、
>国際政治学)が「NPT決裂に思う」と題するコラムを寄せています。
>短い文章のなかで、たいへん本質的で重要な指摘をしていると、私は
>受け止めました。
>2002〜04年軍縮会議日本政府代表部特命全権大使で、ジュネーブで
>同軍縮会議の議長も務めた猪口さんは、「大使として力を尽くした
>多国間軍縮が暗転していくのを哀しみをもって知る」と書き起こし
>ています。(日本経済新聞2005年6月1日夕刊より、以下引用元同じ)
>
>自分が軍縮大使として携わった生物兵器禁止条約再検討会議の過程を
>振り返り、こう言います。「外交現場でまず発見したことは、日本が
>主導権をとらない限り、世界の軍縮は進まないということである。
>軍縮とはそもそも、世界が夢中になるテーマではないが、被爆国日本
>には推進国としての特別の役回りがある」
>
>しかし今回のNPT交渉と同様に、アメリカと非同盟諸国が鋭く対立。
>初日から決裂という経過のなかで、「議長国ハンガリー等と水面下で
>条約強化案を調整」「米国は非同盟諸国との一切の交渉を拒否して
>いたが、日本大使館公邸でなら応じるという」等を経て、生物テロに
>関する条約強化文書が全会一致で可決された内幕を報告しています。
>また、「先の大戦を思えば、生物兵器禁止のために日本大使が腐心
>するのを中国に見てもらいたいという密やかな思いもあった」とも。
>
>私たちの国は、人類史上ただ二度、原子爆弾を使用した攻撃を受け、
>二つの町が微塵に砕け、燃え尽き、数十万人が死に、数十万人が
>いまも苦しんでいる、世界でただ一つの核兵器被爆国です。その
>日本が、それなのにともいえるし、それだからこそといってもいいの
>ですが、いまは国際平和主義を国づくりの根幹に据えている。
>
>だからこそ、非同盟諸国も、アメリカも、中国も、国際平和、軍縮
>というテーマでは、日本には一目を置いている。軍縮特命全権大使
>として駆け回った猪口さんの報告は、そのように読み取れます。そう
>いった、いまの日本の国際的な立場、そのかけがえのない貴重さと
>重要性に、いちばん無頓着で無神経なのが、たいへん残念なことに、
>日本人自身、とりわけ、自分たちの都合だけで無邪気に平和憲法を
>いじくりまわそうとしている人たちなんじゃないのでしょうか。
>
>唯一の被爆国であることの国際的な意味。半世紀にわたり平和憲法の
>もとで国づくりを進めてきたことの値打ち。世界各国がそれを相応に
>認めていることの重み。戦争不法(戦争は政治の一環などではなく、
>けっして起こしてはならない絶対悪である)は、21世紀の世界的な
>流れであると聞きます。日本には、そのような潮流を率先して推進
>していく役割、その資格も、責任も、あるのではないでしょうか。
>
>そのために、平和憲法に、目先の都合で、小手先の改変を加えたり
>しては、けっしていけないのだと思います。

ぎみゆらさんらしい、きちんとしたご意見を拝見いたしました

私も日本国憲法について、平和憲法であると、そして
先の大戦で多くの人達の命と引き換えに日本の国につくられた
大切な憲法であると認識いたしております

ぎみゆらさんの書き込みを拝見いたし、益々憲法をいじくり
小手先だけの言葉で誤魔化したり、ないがしろにするには
あまりにも、勿体無いことだと思いました

人は失ってしまった時にその物の価値を改めて認識すると
言いますが、憲法だけは、まだ間に合うと、改めて
希望を持ちたいと思います

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):軍縮の道を  ■名前 : 昭和 人  ■日付 : 05/6/2(木) 21:28  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ぎみゆらさん:
>ごまめの翁さん、昭和 人さん、パンドラさん、珠さん、
>このスレッドをご覧になっているみなさん、こんにちは。
>
>
>>
>私たちの国は、人類史上ただ二度、原子爆弾を使用した攻撃を受け、
>二つの町が微塵に砕け、燃え尽き、数十万人が死に、数十万人が
>いまも苦しんでいる、世界でただ一つの核兵器被爆国です。その
>日本が、それなのにともいえるし、それだからこそといってもいいの
>ですが、いまは国際平和主義を国づくりの根幹に据えている。
>
>だからこそ、非同盟諸国も、アメリカも、中国も、国際平和、軍縮
>というテーマでは、日本には一目を置いている。軍縮特命全権大使
>として駆け回った猪口さんの報告は、そのように読み取れます。そう
>いった、いまの日本の国際的な立場、そのかけがえのない貴重さと
>重要性に、いちばん無頓着で無神経なのが、たいへん残念なことに、
>日本人自身、とりわけ、自分たちの都合だけで無邪気に平和憲法を
>いじくりまわそうとしている人たちなんじゃないのでしょうか。
>
>唯一の被爆国であることの国際的な意味。半世紀にわたり平和憲法の
>もとで国づくりを進めてきたことの値打ち。世界各国がそれを相応に
>認めていることの重み。戦争不法(戦争は政治の一環などではなく、
>けっして起こしてはならない絶対悪である)は、21世紀の世界的な
>流れであると聞きます。日本には、そのような潮流を率先して推進
>していく役割、その資格も、責任も、あるのではないでしょうか。
>
>そのために、平和憲法に、目先の都合で、小手先の改変を加えたり
>しては、けっしていけないのだと思います。

全くそのとおりです。
世界の700余のNGOが参加した「ハーグ平和アピール」で「各国議会は日本国憲法9条のような政府が戦争を禁止する決議を採択すべきである」をトップにあげ
賞賛しています。(憲法再生フオーラム・水島朝穂より)

日本の憲法9条は世界市民の共有財産として賞賛評価されています。日本自身はもっと自慢すべきなのにトレンドが逆行しているのではないでしょうか。

「九条の会」の輪を広めましょう。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):軍縮の道を  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/6/3(金) 10:34  -------------------------------------------------------------------------
   パンドラさん、昭和 人さん、こんにちは。
レスありがとうございます。


最近いろいろ考えるにつけ、思うのですが、憲法9条の平和主義を、
主権の制限、自分たちが枷をはめられている、といったニュアンスで
とらえている日本人が、いまだに案外多いのだろうと思うのですが、
先に引いた、猪口さんの外交実践を通じた述懐を見ても、それは
まったくの誤解だということが、よくわかると思うのです。

たとえば1978年と82年には、ニューヨークで国連軍縮特別総会
(SSDT、SSDU) が相次いで開かれ、日本からも大勢の代表団が
派遣され、SSDUでは、当時の広島市長、長崎市長、長崎被爆者の
山口仙二さんが、国連の本会議場で発言しました。

日本は戦後国際社会のなかで長く、唯一の被爆国として、国際平和、
軍縮という場面で、大事な役割を期待されてきたんです。ただ残念な
ことに、そのときの代表団の主力は、政府関係ではなく各種の NGO
でしたが。

あれだけの戦争を、最後の3ヵ月は世界中を相手にただ一国で戦い、
沖縄、東京、広島、長崎、無数の悲劇を自ら被りながら、平和国家
として新生と復興を果たしたことは、日本という国の、国際的な、
外交上の、いちばんの武器なんじゃないでしょうか。

平和主義というと、なにか、消極的で、ガマンを強いられていると
受け取る人が、たぶんいるんでしょうけれど、それは大きな勘違い
なんじゃないでしょうか。

「ふつうの国」という言葉が最近聞かれますが、あれだけの無惨な
焼け跡から、平和国家として立ち直ったからこそ、相応の国際的な
敬意と信頼を得ているのではないでしょうか。

ここでまた「ふつうの国」になって、私たち国民にとって、何かいい
ことがあるのでしょうか。その後に残るのは、敬意も信頼も友情も
何もない、国どうしの、過酷な横並びの国際競争だけなんじゃないで
しょうか。日本は自分の国を、自分たちの国民を、そんな冷酷非情な
渦の中に、また投げ込みたいんでしょうか。

平和憲法に自分たちの都合だけで姑息な手入れをするということは、
戦後日本が、平和国家として、大勢の人々の努力で営々と築き上げて
きた、国際的ないちばんの強み、持ち味を、むざむざ捨ててしまう
ことに、ほかならないんじゃないでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):軍縮の道を  ■名前 : パンドラ  ■日付 : 05/6/3(金) 23:12  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ぎみゆらさん:

こんばんは
レス頂きありがとうございます

ぎみゆらさんの、このスレッドにおけるご発言を
ウラ老人党へ推薦させて頂きます

>最近いろいろ考えるにつけ、思うのですが、憲法9条の平和主義を、
>主権の制限、自分たちが枷をはめられている、といったニュアンスで
>とらえている日本人が、いまだに案外多いのだろうと思うのですが、
>先に引いた、猪口さんの外交実践を通じた述懐を見ても、それは
>まったくの誤解だということが、よくわかると思うのです。
>
>たとえば1978年と82年には、ニューヨークで国連軍縮特別総会
> (SSDI、SSDII) が相次いで開かれ、日本からも大勢の代表団が
>派遣され、SSDIIでは、当時の広島市長、長崎市長、長崎被爆者の
>山口仙二さんが、国連の本会議場で発言しました。
>
>日本は戦後国際社会のなかで長く、唯一の被爆国として、国際平和、
>軍縮という場面で、大事な役割を期待されてきたんです。ただ残念な
>ことに、そのときの代表団の主力は、政府関係ではなく各種の NGO
>でしたが。
>
>あれだけの戦争を、最後の3ヵ月は世界中を相手にただ一国で戦い、
>沖縄、東京、広島、長崎、無数の悲劇を自ら被りながら、平和国家
>として新生と復興を果たしたことは、日本という国の、国際的な、
>外交上の、いちばんの武器なんじゃないでしょうか。
>
>平和主義というと、なにか、消極的で、ガマンを強いられていると
>受け取る人が、たぶんいるんでしょうけれど、それは大きな勘違い
>なんじゃないでしょうか。

これこそ、5・22「ピ−スマニフェスト」で辻元清美さん
や天木直人さんがおっしゃっていたことと同じなのですね

>「ふつうの国」という言葉が最近聞かれますが、あれだけの無惨な
>焼け跡から、平和国家として立ち直ったからこそ、相応の国際的な
>敬意と信頼を得ているのではないでしょうか。

本当におっしゃる通りです
>ここでまた「ふつうの国」になって、私たち国民にとって、何かいい
>ことがあるのでしょうか。その後に残るのは、敬意も信頼も友情も
>何もない、国どうしの、過酷な横並びの国際競争だけなんじゃないで
>しょうか。日本は自分の国を、自分たちの国民を、そんな冷酷非情な
>渦の中に、また投げ込みたいんでしょうか。
>
>平和憲法に自分たちの都合だけで姑息な手入れをするということは、
>戦後日本が、平和国家として、大勢の人々の努力で営々と築き上げて
>きた、国際的ないちばんの強み、持ち味を、むざむざ捨ててしまう
>ことに、ほかならないんじゃないでしょうか。

確かにその通りなのです
では、そうならない為に例えば「改憲」ではなく「護憲」に留まる
のみでもなく「日本国憲法」を活かし、活用できるのだと
アピールする為にはどうしたらよいのでしょう

天木さんがおっしゃっていたように
「憲法について議論したり」「憲法を活かそう」と考え行動することが
実はとてもかっこいいことなのだと伝える為には。

これは、そう簡単に結論の出るものでもないし、それぞれの
人が自分の中で考えて行く事なのかも知れません

ぎみゆらさんは何時も大きな視点で、世界の中の日本とか
「憲法」についての、これからを考えておられるように思います


 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):軍縮の道を  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/6/7(火) 11:11  -------------------------------------------------------------------------
   パンドラさん、こんにちは。
ゆっくりなレスで、恐縮です。


> 確かにその通りなのです
> では、そうならない為に例えば「改憲」ではなく「護憲」に
> 留まるのみでもなく「日本国憲法」を活かし、活用できるの
> だとアピールする為にはどうしたらよいのでしょう

お答えになるかどうかはわかりませんが、この場でも何度か出た
言葉を使えば、「自分なりにできることをやる」ということが、
やはり一つの大事なポイントとして、あるのではないかと、私は
思います。

できることをやる、というのは、とりあえず、余力の許す範囲でと
受け取られがちですし、もちろんそれはそれでいいのですが、それと
同時に、もっと積極的に、自分らしいやり方で、自分が得意とする
言い方で、といったようなことが、あるのではないかと思うんです。

私がいま、原爆のことを、いまごろ父に話を聞いたりしながら、
もう一度しつこく考え直そうとしているのも、そういう気持ちが
あるから、そういったところから、何かしら突き動かされるような
ものが、あるからなんです。

たとえばパンドラさんは、不登校やひきこもりの子どもたちや、
その親たちのことについては、いくつもの見聞やご経験をお持ちで、
そこからいろいろと学んできた、そういったことをあまりご存じで
ない人たちには、なかなか見えにくく、わかりにくく、でも本当は、
人としてとても大事なんじゃないか。そういうことが、あるのでは
ないかと思うんです。

そしてそれと、平和のことや憲法のことは、理屈じゃなくて、もっと
自然な感情とか、気持ちとかをたどっていくことによって、ちゃんと
つながっているんだということが、肌身でわかるのではないか。
そこのところが、ものすごく大切なんじゃないか。そう思うんです。

自分なりの、自分だけの、言葉、アピールの仕方を見つけることが
できれば、今度はそこから、自分ひとりでも動けるようになるんじゃ
ないかと思うんです。私は実際、いまちょっと準備していることが、
あるんですけれど。

自分ひとりでも動けるやり方やスタイルが、ちっぽけに見えること
でも、見つかれば、とりあえず、少なくとも、「どうすれば?」
という疑問やいらだちに振り回されることは、あまりなくなるんじゃ
ないかなあと、思っているんですが。

でもそれは、やってみないと、まだなんともわかりません。(笑)
うーん。やっぱりあんまり、答えになってないかもしれませんが、
とりあえず、こんなところで。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):軍縮の道を  ■名前 : パンドラ  ■日付 : 05/6/10(金) 8:09  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ぎみゆらさん:おはようございます

ご丁寧なお返事を頂きありがとうございます

>> 確かにその通りなのです
>> では、そうならない為に例えば「改憲」ではなく「護憲」に
>> 留まるのみでもなく「日本国憲法」を活かし、活用できるの
>> だとアピールする為にはどうしたらよいのでしょう
>
>お答えになるかどうかはわかりませんが、この場でも何度か出た
>言葉を使えば、「自分なりにできることをやる」ということが、
>やはり一つの大事なポイントとして、あるのではないかと、私は
>思います。
>
>できることをやる、というのは、とりあえず、余力の許す範囲でと
>受け取られがちですし、もちろんそれはそれでいいのですが、それと
>同時に、もっと積極的に、自分らしいやり方で、自分が得意とする
>言い方で、といったようなことが、あるのではないかと思うんです。
>
>私がいま、原爆のことを、いまごろ父に話を聞いたりしながら、
>もう一度しつこく考え直そうとしているのも、そういう気持ちが
>あるから、そういったところから、何かしら突き動かされるような
>ものが、あるからなんです。
>
>たとえばパンドラさんは、不登校やひきこもりの子どもたちや、
>その親たちのことについては、いくつもの見聞やご経験をお持ちで、
>そこからいろいろと学んできた、そういったことをあまりご存じで
>ない人たちには、なかなか見えにくく、わかりにくく、でも本当は、
>人としてとても大事なんじゃないか。そういうことが、あるのでは
>ないかと思うんです。
>
>そしてそれと、平和のことや憲法のことは、理屈じゃなくて、もっと
>自然な感情とか、気持ちとかをたどっていくことによって、ちゃんと
>つながっているんだということが、肌身でわかるのではないか。
>そこのところが、ものすごく大切なんじゃないか。そう思うんです。

ほんとうにおっしゃる通りだと思います
>自分なりの、自分だけの、言葉、アピールの仕方を見つけることが
>できれば、今度はそこから、自分ひとりでも動けるようになるんじゃ
>ないかと思うんです。私は実際、いまちょっと準備していることが、
>あるんですけれど。
そうですね、「準備していること」って‥
それは、後のお楽しみということですね。ここではこれ以上聞きません

だからという分けでもないのですが
私が入っておりますMLに
「戦争のつくりかた」の共著者のお一人でいらっしゃる
伊藤美好さんがおられまして、その方がお友達と
国民保護法に関して、昨年、こんなページをつくりました。
http://www.ribbon-project.jp/yuji/index.htm

伊藤さんに、上記のサイトを老人党掲示板で
紹介してもいいですか?という了解を得る為にメールを送った
時に、「戦争のつくりかた」が多くの人の支持を得て
老人党掲示板上で「後生に残したい本100冊」のスレッドで残したい本の候補に
上がったことを申し上げた所、とても喜んでおられ、共著なされた
方々に伝えるとおっしゃっていました。

事後承諾になりましたが、ぎみゆらさんの活動を他の方にメール
でお知らせ致しまして申し訳ありませんでした

>自分ひとりでも動けるやり方やスタイルが、ちっぽけに見えること
>でも、見つかれば、とりあえず、少なくとも、「どうすれば?」
>という疑問やいらだちに振り回されることは、あまりなくなるんじゃ
>ないかなあと、思っているんですが。

なるほど、私は私のペースで人と繋がり、そして
行動してはいます
「どうすれば」というのは近い将来あるかも知れない「憲法改定」に向けて
私が、どう行動し、なにをやれば良いのかという疑問につながって
いるものです

>でもそれは、やってみないと、まだなんともわかりません。(笑)
>うーん。やっぱりあんまり、答えになってないかもしれませんが、
>とりあえず、こんなところで。

ありがとうございました、私もぼちぼち、やっていきます(笑)

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(6):軍縮の道を  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/6/12(日) 19:52  -------------------------------------------------------------------------
   パンドラさん、こんにちは。


最初に念のため申し上げておきますが、私がこの掲示板に書き込んで
いることはすべて、老人党掲示板への(好意的)参加者のみなさんに
差し上げているつもりのものですから、それをどこかに知らせたり、
何かに活用したりするのは、私にとってうれしいことであって、
そのつどお断りいただくことはまったありません。

やろうとしていることというのは、別に隠すつもりもなく、一つは、
私なりに聞いた父の長崎被爆体験を、それなりの分量の文章に書き
とめておこうと思っている、ということです。それはとりあえず、
どこかに発表するとか、そういったことではなく、自分自身の覚えで
あり、頭の整理でもあります。

それから、それと相前後することになるかもしれませんが、やはり
父の体験を題材にして、十ページ程度の小冊子を作り、友人らに配布
することを考えています。まずはとことん手づくりで、百冊か二百冊
作って配り、もしそれなりに手ごたえがあれば、ちゃんとした印刷も
考える。期待はずれなら、また次の手を考える。そんな感じです。

冊子の配布そのものが目的ではなく、要するに、何か、「誰かと話を
するよすが」として、自分独自のものを、作ってみたいのです。私は
実は、とことんわがままな、独歩独行の人間ですので。(笑)

またお会いしたいと思います。どうか、お元気で。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):軍縮の道を  ■名前 : 団塊党  ■日付 : 05/6/4(土) 20:12  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ぎみゆらさん:

>「ふつうの国」という言葉が最近聞かれますが、あれだけの無惨な
>焼け跡から、平和国家として立ち直ったからこそ、相応の国際的な
>敬意と信頼を得ているのではないでしょうか。
>
>ここでまた「ふつうの国」になって、私たち国民にとって、何かいい
>ことがあるのでしょうか。その後に残るのは、敬意も信頼も友情も
>何もない、国どうしの、過酷な横並びの国際競争だけなんじゃないで
>しょうか。日本は自分の国を、自分たちの国民を、そんな冷酷非情な
>渦の中に、また投げ込みたいんでしょうか。
>
>平和憲法に自分たちの都合だけで姑息な手入れをするということは、
>戦後日本が、平和国家として、大勢の人々の努力で営々と築き上げて
>きた、国際的ないちばんの強み、持ち味を、むざむざ捨ててしまう
>ことに、ほかならないんじゃないでしょうか。

お久しぶりです。
ぎみゆらさんのこのスレッドでの投稿は、被爆国日本しか持ち得ない独自の理念を明確にしている、つまり日本人としての誇り高いアイデンティティーを打ち出しているという点で非常に魅力があります。
単に一国の憲法を護るという言うより、もっと雄大な積極的な力を感じます。
私の中の平和主義への情熱をかきたてるに十分な力を持っています。

言葉の力は偉大です。
人間は最後は情熱で動くのではないでしょうか。
私の中の眠っていた情熱が少し揺り動かされた感覚があります。
日本人である限り(改憲に賛成であっても)、まずは日本の依って立つこの原点をしっかりとかみしめるべきだと思いました。
老人党のみなさんにもっと読んで頂くために上へ上げておきます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):軍縮の道を  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/6/5(日) 17:46  -------------------------------------------------------------------------
   団塊党さん、お久しぶりです。


たいへんうれしいレスをいただきました。私がいまモヤモヤと考えて
いること、頭のなかでクンズホグレツこねくり回していることの、
いちばん核心のところを、上手に言ってくださったように感じます。
ありがとうございます。

これは原爆のことに限らないのですが、日本人はどうもやはり、
先の戦争で「ひどくやられた」体験を、「自分たちの恥」と思う
傾向が、いまだに強いのではないかと、最近あらためて感じます。
だから、非戦、平和と聞いたときにも、まるでなにか、お前たち
ガマンしろと言われているように、どこかで感じてしまう。

あれから60年経ったいまごろになって、あの戦争は正しかったなど
という復古論調が、それなりに勢いを持つのも、そういったところ
にも、一つの根っ子があるのかもしれません。

それはそれで、ある程度は仕方がないことなのかもしれませんが、
でも、類まれな「やられ方」をしたというその体験を、「武器」に、
「宝」に変えるという考え方は、けっして単なる居直りではなく、
十分にありえるのではないか。だいたいそんなようなことを、最近
ずっと考えています。

そして、原爆被爆、核兵器被害、それを本当に、現実に体験した
のは、広島、長崎、世界中でこの二度だけだ、そのことを、いちばん
身をもって知っているのは、私たち日本人だというのは、厳然たる
動かしがたい事実ですし、これは海外の人たち、とくに欧米人に、
非常にアピールしやすいことでもあると思うのです。

上手に、きちんと整理して、多くの日本人の、一つの共通認識として
定着し直していけば、今後とも長く、日本という国の「武器」にする
ことができるのではないか。まだあまりうまくはいえないのですが、
だいたいそんなことを考えています。

団塊党さんにエールをいただいたおかげで、また一歩、考えを進める
ことができたように思います。感謝いたします。どうか、お元気で。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 永世中立国のスイス  ■名前 : コップ酒  ■日付 : 05/6/3(金) 13:01  -------------------------------------------------------------------------
   ▼珠さん:こんにちは。

どこにレスをつけていいのかよくわからないので、もしかしたら珠さんあてなのは
見当違いかもしれません、それでしたら申し訳ありません。

戦争体験を語ってくださいスレは、戦争を知らない世代の私にとって、とても
胸がつまるスレッドです。読めば読むほど、ああ戦争は本当にいやだなあ、絶対に
したくないなあと思わざるを得ません。

おそらく、世界中で戦争したくない、というのは共通見解だと思います。
戦争好きな人はもちろん存在しますが、それは一般庶民ではないのでしょう。

戦争をしたくない、この共通理解があって、それじゃあどうやったら戦争をしなくても
済むのか、これが最も大切な命題ですよね?

戦争とは、一国だけでするものではありません。必ず相手国を必要とします。

こちらに集われる皆様方が、憲法9条を堅持する、ということは、その一つの手段であると
思います。
その真意は、つまり「日本は戦争しませんよ」という「大人」の態度を最初に示すことによって、
攻撃される可能性を少なくすること、
さらにはこういった日本の「大人」の態度を他の国々に見せつけることによって、
願わくはそれに倣ってくれること、などだと思います。

しかし、非常に素朴な疑問なのですが、日本のみが戦争放棄だといって、果たして
その他の国は攻めてはこないのでしょうか。前にも書きましたとおり、戦争は必ず攻める国、
攻められる国、2国もしくはそれ以上の国々の間で行なわれます。

中国や韓国、北朝鮮など、周辺国家を見ただけでも、いずれの国も軍事力を増強しています。
日本だけが戦争放棄したところで、それは日本の自己満足にしかならないのではないか、
と敢えて疑問を申し上げます。
いや、自己満足だけならまだましだが、実際に攻められた場合は、何ができるのでしょうか?
武器もなくて、どう守るつもりなのでしょう。。どうしても、この疑問が解けないのです。


スイスは永世中立国ですが、戦争などの有事の際には、政府がただちに有事態勢を取り、
指揮系統なども明確化されています。また、国民徴兵制をとっています。
さらに、有事の際の攻撃に対して、どのように国民が対応すべきか、防衛読本として、
各家庭に配布しています。つまり、炭疽菌その他の生物兵器で攻撃された場合、
どんな薬を飲み、どんなマスクをし、どんな行動をすべきか、という具体的なことが
書かれています。

そこまでしたうえでの、永世中立国です。

何もせずに、手放しで「永遠に中立の立場ですから〜」と言っているのでは断じてありません。
備えるべきことを、国民一人一人のレベルまで備えたうえでのことです。

つまり、中立を謳うにしても、中立を守るための軍事力、そして具体的な「備え」が必要である、
ということです。

このことを考えるとき、日本はただ憲法9条を死守するだけ、もし万が一攻められてきても
きっと何もできないままなのでは?と思ってしまいますが、、、
どうなのでしょうか。


>おっしゃる通りだと思います。理想を忘れてはならないのです。軍縮が行き詰まっているとニュースで聞いたばかりです。現実がどんなに遠くても、足下を見つめて歩むと共に、理想を忘れてはならない。平和を望むなら、軍備を拡大してはならないのです。今より少しでも平和に近付けたい。軍備縮小こそ私たちが次の世代に贈るべきものです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):久野海軍主計中将の配慮  ■名前 : 珍 源斎  ■日付 : 05/5/31(火) 18:11  -------------------------------------------------------------------------
   第二次大戦の敗色濃い日本にあって戦後の日本を立て直し
復興を図ることに最も大切なのは人材であるとの観点から

優秀な人材を「戦火から遠ざけ」海軍主計部にて
そのような人物を確保・温存が図られた・と云うことを聞いた。

その温存された人材の中には戦後の日本の復興と
戦後の日本が発展する役目を担った人たちがおられる。

ソニーの創業者「盛田昭夫氏」元総理大臣「中曽根康弘氏」
をはじめ政治・経済・産業に文字通り貴重な人材とされた

方々がおられた。
惨めな負け戦の中にあって、理性が発揮された数少ない?例で
あったように思う。

日本の敗戦後の世界情勢への視点があれば、もっと終戦を早めてれば
朝鮮半島の分断も広島、長崎の悲劇も避けられたのではなかったか?

歴史で「もしも」を云うことは虚しいことであるが、時の為政者の
頭の働きと決断には国や民族の運命さえ翻弄される厳しい現実がある
ことを・今更ながら思い知らされる。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):久野海軍主計中将の配慮  ■名前 : 昭和 人  ■日付 : 05/5/31(火) 18:49  -------------------------------------------------------------------------
   ▼珍 源斎さん:
>>
>日本の敗戦後の世界情勢への視点があれば、もっと終戦を早めてれば
>朝鮮半島の分断も広島、長崎の悲劇も避けられたのではなかったか?
>
>歴史で「もしも」を云うことは虚しいことであるが、時の為政者の
>頭の働きと決断には国や民族の運命さえ翻弄される厳しい現実がある
>ことを・今更ながら思い知らされる。

昭和史をみると近衛内閣時代に人は多くいた。
終戦提案を潰したのは陸軍を中心とする軍人内閣と昭和天皇(責任者)です。
戦争責任は今も問うべきです。護憲9条と平和の確保のために。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/6/11(土) 9:09  -------------------------------------------------------------------------
    今、(2005/6/11)日テレ系のウェークアップ!ぷらす で生き残りの乗組員が当時の話をされながら、顔を伏せ肩を振るわせて、其の最後に戦争は人間として最大の愚行だと話されていた。

 私も思わず目頭が暑く成りましたが、私より二つ上の方には大和で戦死されている若者も居られ、戦時を聊かでも知っている人間にとっては、胸のつまる話です。

 ひめゆりの話でも、うざい話だと言う若者も出て来ている様で、時代の流れを感じるとともに、戦争の愚行と悲惨さを伝える難しさを感じています。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : こんぺいとう <shima-mama@jcom.home.ne.jp>  ■日付 : 05/6/11(土) 10:22  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ごまめの翁さん:
> 今、(2005/6/11)日テレ系のウェークアップ!ぷらす で生き残りの乗組員が当時の話をされながら、顔を伏せ肩を振るわせて、其の最後に戦争は人間として最大の愚行だと話されていた。
>
> 私も思わず目頭が暑く成りましたが、私より二つ上の方には大和で戦死されている若者も居られ、戦時を聊かでも知っている人間にとっては、胸のつまる話です。
>
> ひめゆりの話でも、うざい話だと言う若者も出て来ている様で、時代の流れを感じるとともに、戦争の愚行と悲惨さを伝える難しさを感じています。

私も見ていました。このお話は決して戦争を美化してはならない貴重な体験
ですね。
6月になると野坂昭如さんが自分の体験談を小説にした「ほたるの墓」のお話
をされますが、TBSの永六輔さんのラジオで先ほど神戸の空襲の話を、野坂
さんの手紙で紹介していました。

私も3歳の時母と疎開先から、まだ神戸で就職したばかりでがんばっていた姉
の夏物を届けにゆく列車の中で空襲にあいました。
緊急停車した列車から私たちは逃げました.母親は私を背負い回りの男性達
に助けられながら安全な場所へ非難しました。
3歳の私の記憶の中で唯一空から降ってくる焼夷弾があります。
爆弾のせいかあたりは真っ暗でその後大雨が降りました.昼間なのに夜のよう
な景色でした。そして何時間が過ぎ、動き出した列車で神戸へ、そこにはまだ
空襲が嘘のような景色でしたが、その後数日で神戸の大空襲がありました.
命からがら姉は家族の疎開先へ逃げてきました。
3歳の幼児の記憶の中に、焼夷弾と負傷した方を乗せた担架、大雨、逃げ惑う
列車の中の人々が切れ切れにあります。小学生の頃その記憶を母親に話して
母を驚かせました。そしてそこでの詳しい状況を話してもらいました。
当時、子供を助けなければと一身に逃げた母親に感謝でした.
昭和16年、戦争に突入した12月に生まれた幼児の戦争体験です。

6月は関西の人にとって戦争を語る月ではないでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/6/12(日) 19:27  -------------------------------------------------------------------------
   こんぺいとうさん、ご無沙汰しています。


神戸の空襲のお話を聞かせていただき、ありがとうございます。
とても貴重な体験談であると思います。

たいへん僭越ではありますが、そのご体験を、ある程度まとまった
形で、書いておかれることを、心よりおすすめいたします。どこかに
発表するとか、そういったことではとりあえずなく、ご自身の体験を
文字としてまとめて、あわせて振り返っておくという意味で。

神戸の空襲のことであれば、戦災誌や戦災記録なども、文字で読める
ものが、ある程度はあるようです。そういったもの、とくに客観性の
高い記録、資料に、できるだけ目を通されることも、役に立つのでは
ないでしょうか。

とくに、子どもや若い人たちと接する機会の多いこんぺいとうさんの
ような方には、機会をとらえて、うまく話をはこぶための、一つの
よすがにもなるのではないかと思います。

種々ご活動のこんぺいとうさんに、生意気至極のたいへん申し訳ない
もの言いとは存じますが、ぜひ、お考えになってみてください。

またうっとうしい時期に入ってきましたが、どうかお元気でお過ごし
ください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : こんぺいとう <shima-mama@jcom.home.ne.jp>  ■日付 : 05/6/13(月) 20:46  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ぎみゆらさん:
>
こんぺいとうさん、ご無沙汰しています。
>
>
>神戸の空襲のお話を聞かせていただき、ありがとうございます。
>とても貴重な体験談であると思います。
>
>たいへん僭越ではありますが、そのご体験を、ある程度まとまった
>形で、書いておかれることを、心よりおすすめいたします。どこかに
>発表するとか、そういったことではとりあえずなく、ご自身の体験を
>文字としてまとめて、あわせて振り返っておくという意味で。
>
>神戸の空襲のことであれば、戦災誌や戦災記録なども、文字で読める
>ものが、ある程度はあるようです。そういったもの、とくに客観性の
>高い記録、資料に、できるだけ目を通されることも、役に立つのでは
>ないでしょうか。
>
>とくに、子どもや若い人たちと接する機会の多いこんぺいとうさんの
>ような方には、機会をとらえて、うまく話をはこぶための、一つの
>よすがにもなるのではないかと思います。
>
>種々ご活動のこんぺいとうさんに、生意気至極のたいへん申し訳ない
>もの言いとは存じますが、ぜひ、お考えになってみてください。
>
>またうっとうしい時期に入ってきましたが、どうかお元気でお過ごし
>ください。

ご指南有難うございます。
そうですね、3歳児の体験ですが鮮明に覚えている部分を亡母の記憶と
重ねて記録しておくといいかもしれませんね.

戦後、私たち一家がどんな生活をしてきたか亡き息子には彼が子供の頃よく
話しました。日本がこんな浮かれた状態になり物を真面目に考える人が
少なくなっていく現在、回りの若者に語り伝えるのも私たち世代の仕事
かも知れませんね.

私自身の60有余年の一生を書きたいとは常々思っていますが、文書力のなさ
に躊躇しています。老後の仕事が出来ました。

まだ元気な私の姉兄達にも聞き取りをして記録を残していきたいと思います。
兄も姉も旧制中学、女学生、の時代を戦争に振り回されましたから。

ぎみゆらさん、又よろしくお願いいたします.

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/6/14(火) 9:00  -------------------------------------------------------------------------
    こんぺいとうさん
 横から失礼致します。

 私は同人誌を主催するまで生活に追われ戦後40年ちかく手紙も書いた事がありませんでした。
 自分史を書き残したいと思っても小学校卒の学力では、何とか本を読めても,書くとなると仮名ばかりの文章に成り、今でもそうですが、人前には出せる様な文章は書けませんでした。
 何とか書く方法はと思って考え付いたのが、当時少しづつ流行ってきたワープロでキーボードを叩く練習に、仕事仲間が手作りの本を作ろうと友の口車にまんまと引っかかり、同人誌を始めたのが書く事の始まりで17年経ってしまいました。

 当時、同人誌を作る事で、ある専門誌の編集長に相談しましたら、
「貴方たちは物を書いて金儲けをするのでないから、少々の間違いでも、書いた意味が読んだ人に正確に伝われば良いのだから、文章のどうだこうだは気にしなく、恥ずかしがらずに書く事ですよ」

 ですから、悪文でも恥を捨てる事で書ける様に成りました。人間恥を捨てると恐いものが無くなります?笑い
ただし「みそ(味噌)とくそ(糞)姿もにたり名も似たり一字違いで大違い」だけには気をつけています。

 戦時の思い出は良い事は少ないと思いますが、当時を思い出し、お書きに成って宜しければ拝見させて下さい。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):戦争体験を語って下さい  ■名前 : 昭和 人  ■日付 : 05/6/14(火) 9:37  -------------------------------------------------------------------------
   こんぺいとう さん。

おせっかいかもしれませんが 是非 書いてください。
野坂昭如のアニメ映画「 蛍垂の墓」(ほたるの墓)は私もこのスレッドへ紹介し見ることをお薦めしたことがあります。(ぎみゆらさんが本を採用してくれたのを覚えています)
大切なことは戦争の体験(特に悲惨な)をしていない人に 体験した人が語り伝えることだと思います。
詩人は詩で、映画人は映画で 作家は小説で 一般人は孫に語ったり、書いたりすることが「平和を守る」ことに一番よく繋がることだと思います。
下手な反戦アピールよりも この方が強いのです。

直接体験だけでなく、見たり聞いたりの感想も お互いに寄せ合ってみませんか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(5):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ぎみゆら <gimiyura@fox.dti2.ne.jp>  ■日付 : 05/6/14(火) 20:53  -------------------------------------------------------------------------
   こんぺいとうさん、ごまめの翁さん、昭和 人さん、こんにちは。


〈こんぺいとうさん〉
> そうですね、3歳児の体験ですが鮮明に覚えている部分を亡母の
> 記憶と重ねて記録しておくといいかもしれませんね.

> 私自身の60有余年の一生を書きたいとは常々思っていますが、
> 文書力のなさに躊躇しています。老後の仕事が出来ました。

〈ごまめの翁さん〉
> 同人誌を作る事で、ある専門誌の編集長に相談しましたら、
> 「貴方たちは物を書いて金儲けをするのでないから、少々の
> 間違いでも、書いた意味が読んだ人に正確に伝われば良いの
> だから、文章のどうだこうだは気にしなく、恥ずかしがらずに
> 書く事ですよ」

〈昭和 人 さん〉
> 大切なことは戦争の体験(特に悲惨な)をしていない人に
> 体験した人が語り伝えることだと思います。

> 下手な反戦アピールよりも この方が強いのです。

   *

みなさんから、とても大事なご指摘をいただいたように思います。

文章技術、上手な文章は、必要ありません。自分が実際に経験した
こと、そのとき感じたこと、それが、読む人に、なるべくきちんと
伝わるように書くこと。それが、ほとんどすべてなんです。

そのときに、一つのコツのようなものは、いっぺんに長いものや、
たくさんのことを書こうと思わずに、まず、いちばん書きたいこと、
一つの出来事、一つの思い出から、書くということでしょうか。

文字数に決まりはありませんが、800〜1,000字くらいが、一つの
目安になります。それくらいが、とりあえず、書く側からも、読む
側からも、ちょうどいいところなんです。

いちばん書いてみたいことを、まず、800字くらいで書いてみる。
結果的に長くなっても、それは別にかまわない。書き足りないことが
出てきたら、それはそれで、また別の新たな一本として書いてみる。

そうやって、一本一本をきれいに仕上げることよりも、書きたいと
思うことを見つけて、思い出して、調べて、とりあえず書いてみる。
そのくり返し。60年前の日記を、つけ直すような感じでしょうか。

いまはみなさん、ワープロ、パソコンだと思いますので、直したり、
書き加えたり、いったん別々に書いたものを一緒にしたり、そうした
ことは、後から割と簡単にできます。

まずは、なるべく小さく切り分けた、一つのことを、800字くらいで
書いてみる。それを、一つ一つの出来不出来は、とりあえずあまり
気にせずに、少しずつでも、書きためてみる。そんな感じです。

実は、自分が仕事で文章を書くときも、割と似たようなやり方をする
ことが多いんです。まず、書かなければいけないことを、項目として
ざっと書き出して、バラバラに書いていく。

とりあえず、一個一個の仕上がりはあまり意に介さないようにして、
先に進み、ひと通り何か書くことを優先して、進めていく。それらを
つなぎ合わせたり、仕上げたりすることは、また後で考える。

いまこのスレッドをお読みになっている方も、ゆっくりでいいので、
どうか、お試しになってみてください。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/6/13(月) 10:49  -------------------------------------------------------------------------
    何時も弟を引き合いに出して申し訳ないのですが、先日昔の話をしたあと大討論に成ってしまいました。

 弟は「今の日本政府は日本は生温い。竹島でも尖閣でも先日の中国原潜の領海通過、それに韓国漁船の逃亡、遠慮はする事は要らない何の反応を示さない原潜は沈めてよい。もし日本の潜水艦が同じ行動を起こして居たら、攻撃を受けて沈められただろう。竹島は自衛隊で取りかえしたら良いのだ」
と云うのです。

 私は、「自分が戦争のため父母を亡くし辛苦をたえて帰国したのに、相手に喧嘩を売る様な事は駄目なのではないか」
と言いますと
「兄貴は知らないから其の様な生温い事が言えるのだ。俺たちの様な悲惨な目に遭うとソ連や朝鮮や八路(共産)は憎しみしか残ってない。彼等を舐めていたらしまいに彼等の属国にされる」
 と言うのです。
 私は
「日本が昔、中国や朝鮮を土足で踏み込む様な事をしたから、其の憎しみでお前達に仕返しをしたのだからしかたがない面もあるのでは」
 と言うと
「俺が物心付いてから朝鮮を見ているが、食料の配給も差別をしていたとは感じられない。学校も、朝鮮と日本人学校に分かれていたが、日本人学校に朝鮮人も入学出来た。俺は先祖のやった事は見ていないし知らない。しかし俺は彼等に悪い事は何にもしていない。」
 と言うのです。

 同じ親から生まれ成長時期に全く違った環境に育った為,方や戦争反対,片や何処にも負けない軍隊をと思想があい反する。

 結局、暴力では憎しみしか残らないと言う事を私の家族の中でも実証が出来た感じで、武力抗争の続く中東でもは何時まで経っても暴力行為は治まらないでしょう。

 中国や朝鮮でも歴史教育で憎しみしか教えていないので、半世紀以上経った実体験の無い者でも憎しみを持ってます。
 だから弟の様に惨めな体験した人間は彼等以上に憎しみが残るのは当たり前の感じで、此れは修復しがたく、この世を去るまで憎しみを残したまま死んで行くと思うと兄としては不憫で成りません。

 要は此の地球から暴力行為を絶滅しなければ、憎しみの残った社会は延々と続くと私は思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : ごまめの翁  ■日付 : 05/6/21(火) 8:23  -------------------------------------------------------------------------
    先日のテレビに小泉首相が硫黄島: 戦没者追悼式出席したと云う。
あの小さな島で彼我、合わせて5万人以上の戦死傷者が出た。特に記録では日本軍の殆どの21,900名の戦死者、生きて帰った方は僅か1,023名だそうだ。

 此の放送のパネラー木元教子さんが、私が硫黄島に行った時、何方かトランペットを持ってこられた方が、
「海ゆかば」
を吹かれたそうだ。其の淋しいメロディを聞いていると胸に込み上げるものが有ったと話されていた。

 昔人間の私は、知らず知らずに軍歌を口ずさんでいる時がある。反戦人間だが左では無いし右でもない。ただのの人間なのだが「銀翼連ねて南の戦線」など私にとっては懐かしのメロディになるのだろう。其の当時の教育が身に滲みていたのかもと思うがそうでもない。しかし多くの軍歌が出てくる。だが此の「海ゆかば」だけは歌った事がない。戦時中、学校で歌う時も仕方がないから歌っていたのが本音だ。
「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば 草蒸す屍 大君の 邊(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ」

 考えてみると此れ程国民を馬鹿にした歌はない。兵士が戦で倒れる時「邊(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ」と云う精神状態で死んで行ったのだろうか。此の歌を聞くと残念だが仕方なく死んで行ったと云うか殺された兵士の思いはどの様なものだったか、其れを思うと知らず知らず涙が出てくるのだ。

 話は全く違うのだが、同じ番組で、中国の田舎の小学校の話をしていた。日本の軍艦マーチを行進の時に使っていたと言っているのだ。此れを使った先生は日本の軍歌とは知らないので良い行進曲と思ったのだろう。
 「守るも攻めるも鉄の」なんて、日本バッシングの中国でだ。私たちは此の話を聞いて笑えるのだが日本の軍歌と判った時一番驚いて気が転倒したのはご本人だろう。笑い
 判らなければ憎しみも湧かない。もし日本の軍歌と判っていたら序曲を聴くだけでも腹が立つのだろう。

 此の人間の心理状態に付いて中国いや日本にも言える事だ。教育が国民にどのように影響するか。中国も被害と恨みばかりを教えていると、未来永劫に日本とは中良くは成れない。歴史は正確に教えるべきだろうが、其の時に呪詛までくっ付けるから、被害を被った3代目までが恨みを残すのだろう。いや世界を見ても2000年経っても恨みは延々と残る国家が有る事が証明だ。

 又、日本は何事も曖昧が好きだ。この曖昧さは外交や近代史は不利であると言う事を認識しなければならない。歴史も終わった事だったら何事も隠し立てなく正確な歴史を学びたいものだ。私も歳だ、戦争は勝った国でも負けた国でも何か原因は潜んでいる。現代は映像が発達しているので、可成り史実を正確に伝えられる様に成ったが、今だにあの戦争で割り切れないものが残ったままこの世をグッパイしなければは残念至極である。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):戦争体験を語って下さい4・最後の書き込み  ■名前 : 昭和 人  ■日付 : 05/6/21(火) 10:19  -------------------------------------------------------------------------
   理屈なしに感動してこの書き込みを見ました。
私も軍歌は曲を聴くと本能的に想いだします。
「海ゆかば」は歌う曲でなく聴く曲だと思います。
随分と聞かされた記憶が蘇ります。だけど詩(文句)は覚えていない。ごまめさんの記事をみて ああそうだったかです。
軍艦マーチは今でもスポーツなどで応援歌としてやっているが、私はこれをきくと
「大本営発表」NHK戦果ニュースを想いだす。

これらのメロデーを聞かされるのは 「切ない」です。

ところで硫黄島の戦争は悲惨です。戦後実録の入った映画があったはずです。池部 良 主演(デビュー)だったと思う。
リアルな傑作だったと思うので 再度 見たいものだ。
8月には上映映画館を探して見たいと思う。あったら紹介します。
知っている方あれば教えてください。
これも「戦争体験」です。

ごまめ さん 有難うございました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━    通常モードに戻る  ┃  INDEX  ┃  ≪前へ  │  次へ≫    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━                                 Page 328