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 ▼再び、首相靖国参拝の意味するもの  pierre 05/7/3(日) 20:24
   ┣Re(1):再び、首相靖国参拝の意味するもの  告天子 05/7/3(日) 23:00
   ┣Re(1):再び、首相靖国参拝の意味するもの  告天子 05/7/3(日) 23:01
   ┃  ┗Re(2):再び、首相靖国参拝の意味するもの  pierre 05/7/7(木) 16:29
   ┃     ┗Re(3):再び、首相靖国参拝の意味するもの  告天子 05/7/7(木) 16:52
   ┗Re(1):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ozone 05/7/7(木) 19:15
      ┗Re(2):再び、首相靖国参拝の意味するもの  告天子 05/7/7(木) 19:33
         ┗Re(3):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ozone 05/7/7(木) 20:13
            ┗Re(4):再び、首相靖国参拝の意味するもの  惣佐衛門 05/7/8(金) 3:27

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 ■題名 : 再び、首相靖国参拝の意味するもの
 ■名前 : pierre <pierre_byobu@mac.com>
 ■日付 : 05/7/3(日) 20:24
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    告天子さん
 私は政治家、軍の最高幹部あるいは企業のトップなどのように権力を持った人たちがその権力を行使する場合に問われるのは、結果責任だと考えます。ですから、告天子さんは
「東條首相が赤誠をもって政治に当たったというのは、これは間違いないことでしょう。それで「結果が悪かった」から、評価しない、責任を取らせて霊も祀らない、というのは、業績評価主義みたいなものを、信仰の場に持ち込む話ではないかと思われます」
といわれますが、彼がいかに赤誠を以て政治をしようと、結果が悪かったら当然責任を問われるべきなのです。また靖国合祀について言えば、靖国神社が一宗教法人として、遺族も諒解して祀ったのであればそれはそれでいいのですが、問題はその靖国神社に首相が参拝することを私は許せないのであります。靖国神社は合祀された「英霊」を国のために殉じたとして顕彰しております。それは一宗教法人の行為に止まるならいいのですが、首相が参拝することによってその靖国神社の姿勢を国として認めたことになり、つまりは東條元首相らは責任を問われるどころか、国のために尽くしたとして顕彰されてしまうことになるからです。
 告天子さんはまた
「こうした歴史の流れというものを、東條首相は止められたものでしょうか?」
と疑問を呈しておられますが、これには私も同感です。ですから、私は東條氏だけの責任を問題にしているわけではありません。しかし「こうした歴史の流れ」というのは日本にとって不可抗力だったわけではありません。日露戦争に勝って大国の仲間入りを果たした日本がその後、その成功体験に酔って夜郎自大となり、厳しさを増す国際環境を巧みに乗り切ることができなかった結果がもたらしたものです。こういう事態に陥ったのは、この時代に日本の国家意思を決めてきた昭和天皇を含む権力者たちの責任だったのです。A級戦犯で靖国合祀されている14名は、それぞれに軽重はあるでしょうが、全員がこの責任を分担すべき権力者に入るでしょう。そして責任を追及されなければならない人たちは、他にもまだいるはずです。
 昨日、7月2日、NHK・TVでサイパン生き残りの人たちの証言を綴ったトキュメンタリーが放送されました。日本軍は民間人にも「生きて虜囚の辱めを受けず」という『戦陣訓』を強制しました。ある老婦人は「日本の国に激怒した」と語っていました。この『戦陣訓』は東條元首相が陸軍大臣のときに公布したものでした。これがいかに多くの悲劇を生んだか、あらためていうまでもないでしょう。また、今日、7月3日のテレビ朝日には東条由布子氏が出て、戦争末期あるいは戦後に東條元首相の家族として酷い扱いを受けた話などをされていました。いずれも戦争の被害というべきでしょうが、一方は無辜の一庶民、片やかっての権力者の家族と、その立場は決定的に異なるのではないでしょうか。
 東條氏は、元首相が死に臨んで国民に対する責任を痛感していたといわれました。だからこそ「一切語るなかれ」という「家訓」があるのではないでしょうか。だからその「家訓」に基づき首相参拝を求めることなどは是非慎んでいただきたいと、あらためて痛感した次第です。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/7/3(日) 23:00  -------------------------------------------------------------------------
   ▼pierreさん:
お返事ありがとうございます。

> 私は政治家、軍の最高幹部あるいは企業のトップなどのように権力を持った人たちがその権力を行使する場合に問われるのは、結果責任だと考えます。

私もその通りだと思います。

>ですから、告天子さんは
>「東條首相が赤誠をもって政治に当たったというのは、これは間違いないことでしょう。それで「結果が悪かった」から、評価しない、責任を取らせて霊も祀らない、というのは、業績評価主義みたいなものを、信仰の場に持ち込む話ではないかと思われます」
>といわれますが、彼がいかに赤誠を以て政治をしようと、結果が悪かったら当然責任を問われるべきなのです。

私もそう思います。しかしここは少し、微妙に違います。東條首相など当時の政治責任者に「責任がない、誤りがない」とは言えませんが、

「彼らに責任を問う」とは、どういうことなのか。賠償でもさせることが、責任を取らせることなのか。未来永劫責め立てることが、その責任の取らせ方なのか。

次に、靖国神社は、そのような責任を取らせるための場所か。これは違うと思います。政治に責任があるかどうかと、霊を慰霊するかどうかは全く別の問題であり、混同されるべきではありません。そうしなければ、神社が政治責任を問う場になってしまいます。

過去の政治の責任については、歴史の認識により、反省されるべきです。神社は、その責任を断罪するための場ではありません。


>また靖国合祀について言えば、靖国神社が一宗教法人として、遺族も諒解して祀ったのであればそれはそれでいいのですが、問題はその靖国神社に首相が参拝することを私は許せないのであります。

これはお気持ちとして理解できることですが、首相は東條首相を政治的に礼賛するために参拝したとかではありませんし、心情的な話かと思います。


>靖国神社は合祀された「英霊」を国のために殉じたとして顕彰しております。それは一宗教法人の行為に止まるならいいのですが、首相が参拝することによってその靖国神社の姿勢を国として認めたことになり、つまりは東條元首相らは責任を問われるどころか、国のために尽くしたとして顕彰されてしまうことになるからです。

東条元首相ら戦没者を、慰霊・顕彰するために、首相は参拝する、という話かと思いますが、戦争を賛否するとか、過去の政治に失敗や責任が何らないことを言わんがために参拝するのではありませんから、慰霊・顕彰をしても何ら問題はないと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/7/3(日) 23:01  -------------------------------------------------------------------------
   ▼pierreさん:
> 告天子さんはまた
>「こうした歴史の流れというものを、東條首相は止められたものでしょうか?」
>と疑問を呈しておられますが、これには私も同感です。ですから、私は東條氏だけの責任を問題にしているわけではありません。しかし「こうした歴史の流れ」というのは日本にとって不可抗力だったわけではありません。

同感です。靖国神社を肯定せんがために、日本の過去なら何でも正当化するような話になるなら、それはおかしいと思いますし、全く不可抗力であればそれは自然現象とでも言うべきことで、反省も責任もあり得なくなるからおかしいと思います。

しかし、ここで「責任を問う」というのは、過去の日本に対して現代の私たちがいかなる立場をもってするのかは、難しいところかと思います。「過去を裁く」裁判官としての資格を、一体誰が持っているのか、我々はただ過去の失敗を教訓に、それを忘れないようにするに止めるのがよろしいかと私は思います。認識の問題を、政治の問題とし、それを更に信仰の場にまでも拡張するならば、「政治の裁き」は止まることなく国民生活を不安定にさらすでしょう。たとえば時効というものは、人間の法的な知恵です。過去のことは、「裁きの対象」にいつまでもし続けることは、人間を不幸にすることかと思います。

過去の「責任」問題は、「認識の対象」にいつか変わっていくべきものかと思います。裁かれるのは権力者のみならず、一般兵士にしたって、その対象にしようと思えばいくらでも出来ます。それは、結局のところ終わらない戦争をもたらすだけです。裁きは、また次の裁きの対象になるだけですから。


> 東條氏は、元首相が死に臨んで国民に対する責任を痛感していたといわれました。だからこそ「一切語るなかれ」という「家訓」があるのではないでしょうか。だからその「家訓」に基づき首相参拝を求めることなどは是非慎んでいただきたいと、あらためて痛感した次第です。

東條元首相は、いわば泥にまみれた、それこそ罪というなら、どれほど罪深い罪であるかを分かっておられたが故に、その全てを引き受けて「一切語るなかれ」とされたのではないでしょうか。ご遺族の方が、それを敢えて語る、というのは、並々ならぬご決心あってのことですから、その深いお気持ちというものも汲まれねばならないと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : pierre  ■日付 : 05/7/7(木) 16:29  -------------------------------------------------------------------------
    告天子さん
 おっしゃる通り、東條元首相を含めた戦前の権力者たちの責任を問うことは、もうできません。本当は敗戦直後に、彼らの戦争責任追及を日本国民の手でやるべきでしたが、残念ながらその機会は永遠に失われました。勿論、東條由布子氏などのご遺族はまったく無関係で、責任を追及する対象ではありません。しかし、だからといってその責任問題は忘れていいことではありません。
 そこで首相の靖国参拝について考えてみます。最近、政府は「私人としての立場」と私的なものだと言い出している(『朝日新聞』2005.06.14.夕刊)ようですが、現職の首相が衆人環視の中で参拝するのですから、政府がどう言いくるめようと、それは政治的には日本国首相が参拝している、つまり公的な意味を持っていると考えるべきであります。そして靖国神社では、そこに祀られている「英霊」は国に尽くして亡くなったものとして顕彰されているのです。「顕彰」とは『広辞苑』によると「功績などを世間に知らせ、表彰すること」とあるとおりで功績を讃えることであり、現職首相が参拝することは神社のそういう行為を公に是認することになるのです。その証拠に靖国神社は彼らが戦った戦争を肯定し、その影の部分を示さず、結果としてそれを美化しています。作家の目取真俊氏は靖国神社の遊就館には沖縄戦にも触れられているが「皇軍兵士たちが沖縄で行った住民虐殺や食糧強奪、壕追い出しなどについては記されていない」と書いています。(『朝日新聞』2005.04.22.朝刊)
 しかしそういう神社の行為も、それが一宗教法人として信者たちの中で宗教的な行為として行われているなら、そしてまた、あの戦争で国民や近隣諸国に言語に絶する災厄をもたらした責任ある人を祀ろうと、それをとやかく言うつもりもありません。ですが、そこに現職の首相が度々参拝し、あるいはまた「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の国会議員が集団で参拝したりすると、それは最早宗教的行為ではなく、すっかり政治的なものになってしまうのです。彼らは国に尽くした人として顕彰され、その本来負うべきだった責任は雲散霧消して忘れられてしまうのです。そうなるのを私は看過できません。彼らに責任があるという事実は、決して忘れてはならないことなのでます。
 ですから東条元首相が国民に対する責任を自覚していたのなら、そして由布子氏がそれをお認めになっているのなら、首相の参拝を要請するようなことは謹んで戴きたいのです。これが赤紙で死に追いやられたものの遺族としての願いです。

 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/7/7(木) 16:52  -------------------------------------------------------------------------
   ▼pierreさん:
> 告天子さん
> おっしゃる通り、東條元首相を含めた戦前の権力者たちの責任を問うことは、もうできません。本当は敗戦直後に、彼らの戦争責任追及を日本国民の手でやるべきでしたが、残念ながらその機会は永遠に失われました。勿論、東條由布子氏などのご遺族はまったく無関係で、責任を追及する対象ではありません。しかし、だからといってその責任問題は忘れていいことではありません。

私もそう思います。しかし、この場合、むしろ、責任問題というよりも、倫理問題に転化させるべきかと思います。追及できない責任であれば、責任問題として追及するのはおかしいからです。


> そこで首相の靖国参拝について考えてみます。最近、政府は「私人としての立場」と私的なものだと言い出している(『朝日新聞』2005.06.14.夕刊)ようですが、現職の首相が衆人環視の中で参拝するのですから、政府がどう言いくるめようと、それは政治的には日本国首相が参拝している、つまり公的な意味を持っていると考えるべきであります。

仰る通りかと思います。首相が参拝するのであれば、それは当然に公的な意味を持つと私も思います。


>そして靖国神社では、そこに祀られている「英霊」は国に尽くして亡くなったものとして顕彰されているのです。「顕彰」とは『広辞苑』によると「功績などを世間に知らせ、表彰すること」とあるとおりで功績を讃えることであり、現職首相が参拝することは神社のそういう行為を公に是認することになるのです。

それはどうでしょうか。そう取る人もいるし、取り方はそれぞれだと思います。首相が参拝したことは、靖国神社の主張とか過去とかを首相が公的に是認した「ことになる」、というのは、受け取る側の問題かと思います。


>その証拠に靖国神社は彼らが戦った戦争を肯定し、その影の部分を示さず、結果としてそれを美化しています。作家の目取真俊氏は靖国神社の遊就館には沖縄戦にも触れられているが「皇軍兵士たちが沖縄で行った住民虐殺や食糧強奪、壕追い出しなどについては記されていない」と書いています。(『朝日新聞』2005.04.22.朝刊)

美化、というのは人間の基本的な性格ですから、戦争の美化というのはあり得ると思います。しかしそれは、どこの国でもそうしていると思いますし、そういう「追悼・慰霊・顕彰」の場と、pierreさんが言われるような、戦争の悲惨さを明らかにし、考察すべき場とは、別の話だと思います。私は両者がそれぞれ別個にあるべきだし、どちらも必要ではないかと考えます。


> ですが、そこに現職の首相が度々参拝し、あるいはまた「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の国会議員が集団で参拝したりすると、それは最早宗教的行為ではなく、すっかり政治的なものになってしまうのです。

そうですね。宗教、というのとも違うように思いますが、政治的な性格が全くないとは、言えないです。だから、いやしくもその政治利用を政治家が試みることなどあってはならないと思うし、信仰心というものを強く高めて、反対の立場の方にも納得してもらえるような祈りを捧げてほしいものだと思います。


>彼らは国に尽くした人として顕彰され、その本来負うべきだった責任は雲散霧消して忘れられてしまうのです。そうなるのを私は看過できません。彼らに責任があるという事実は、決して忘れてはならないことなのでます。

靖国神社にお祀りしたからと言って、過去の歴史をすっかり忘れ去るようなことは、勿論あってはならないと思います。仰るとおりだと思います。


> ですから東条元首相が国民に対する責任を自覚していたのなら、そして由布子氏がそれをお認めになっているのなら、首相の参拝を要請するようなことは謹んで戴きたいのです。これが赤紙で死に追いやられたものの遺族としての願いです。


pierreさんのお気持ちも分かるように思いますし、また、国を思い、苦しい立場の中で参拝を敢えて要請された東條氏の気持ちも、やはり重くつらいものであったろうと思います。

戦争の惨禍というものを乗り越えて、心一つに日本人が祈りを捧げられる日が訪れることを、願って已みません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : ozone  ■日付 : 05/7/7(木) 19:15  -------------------------------------------------------------------------
   今日は7月7日中戦争の直接の発端となつた盧溝橋事件の記念日です。各社この超現代的事件の本質をどのように報道しているか、Webサーフィンして探してみました。今のところ下記のサイトだけに発見しております。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1266542/detail

今首相の靖国参拝が国内でも国際的にも大問題になっており、小泉首相の命取りになるかもしれない時、特に節目、節目にはしっかりと、あの戦争については賛否両論の意見を聞き勉強をしたいと思っております。そして他者の声などに惑わされず自分なりに考えたいと思っております。

それにしてもテレビや新聞では大々的に周辺諸国についての報道を毎日しておりますが、肝心な問題については掘り下げた報道を視聴者や読者の前に提供しないのが不思議でしょうがありません。社会的責務を感じていないのでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : 告天子  ■日付 : 05/7/7(木) 19:33  -------------------------------------------------------------------------
   ▼ozoneさん:
>今日は7月7日中戦争の直接の発端となつた盧溝橋事件の記念日です。各社この超現代的事件の本質をどのように報道しているか、Webサーフィンして探してみました。今のところ下記のサイトだけに発見しております。
>
>http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1266542/detail

リンク先は、赤旗からの記事のようですね。

読んでみると、日本の中国に対する戦争は、侵略である、としています。

他方、中国の下戦争は、民族独立のための、誇りある戦争だ、としています。

これって、「戦争絶対反対」とは矛盾するのでは?。中国がする戦争は、「よい戦争」だった、ということなのでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(3):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : ozone  ■日付 : 05/7/7(木) 20:13  -------------------------------------------------------------------------
   ▼告天子さん:
>▼ozoneさん:
>>今日は7月7日中戦争の直接の発端となつた盧溝橋事件の記念日です。各社この超現代的事件の本質をどのように報道しているか、Webサーフィンして探してみました。今のところ下記のサイトだけに発見しております。
>>
>>http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1266542/detail
>
>リンク先は、赤旗からの記事のようですね。
>
>読んでみると、日本の中国に対する戦争は、侵略である、としています。
>
>他方、中国の下戦争は、民族独立のための、誇りある戦争だ、としています。
>
>これって、「戦争絶対反対」とは矛盾するのでは?。中国がする戦争は、「よい戦争」だった、ということなのでしょうか。

告天子さん、今晩は。
受け取り方にはいろいるな可能性があると、私も思います。私がハットしたのは今日本にとって政治、外交、経済等の中心になっている問題に関連あるチョウ現代的な盧溝橋事件を考える資料、問題の提供をlivedoorを除いてマスコミが、今私が知っている限りでは、していないとうことであります。私は遅ればせながらいろんな角度からこのチョウ現代的な重大事件を勉強したいと思っております。提供されているアーティクルを読みながらこのような捉え方もあるのかなぁと思っているところです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(4):再び、首相靖国参拝の意味するもの  ■名前 : 惣佐衛門 <kaziyanoozi3@mua.biglobe.ne.jp>  ■日付 : 05/7/8(金) 3:27  -------------------------------------------------------------------------
   ozoneさん
盧溝橋事件はたしか中国共産党が画策した事件ですよね。中国でそれを記念し、被害者づらして、それも宗教否定の唯物論者達が黙祷をしているテレビニュ−スを見ましたが、頭が変になりそうでした。

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