Page 405 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼満点主義の弊害 相良唯夫 05/7/7(木) 21:25 ┗Re(1):満点主義の弊害 告天子 05/7/10(日) 1:39 ┗Re(2):満点主義の弊害 相良唯夫 05/7/10(日) 11:25 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 満点主義の弊害 ■名前 : 相良唯夫 ■日付 : 05/7/7(木) 21:25 -------------------------------------------------------------------------
なだ先生は「満点主義は、完璧を求める神経症の一つでもある。完璧主義者は寛容さがない。自分の考えだけが唯一絶対に正しいと思い込み、相手の立場に立って物事を考えることができない。」と仰っておられます。 さらに、「そもそも社会はそれぞれの立場において、正しいものと正しいものがぶつかり合う場である。ドイツの哲学者ヘーゲルも『価値観は人さまざまである』と言っている。価値観と価値観のぶつかり合いから生じる争いや葛藤を経て、人は視野を広げ思索を深めていき、成長するのである。」 以上のような先生のお言葉があるように、この掲示板においても充分なる話し合いが出来ることは素晴らしいことであります。 それなのに、活発な意見が飛び交っている途中でスレッドごとの削除は先生の仰る満点主義の弊害に通じると思いますが如何なものでしょうか? 「人間として守るべき筋道を無視した経済優先」の典型が「リストラ」です。 バブルが崩壊し、不景気が騒がれ出した頃から、リストラクチャリング(構造再編成)は経済再生に欠かせないものだとして、政府もマスコミも盛んに推奨してきました。 ところが実際には、頽廃した企業構造を改革するのではなく、ただ自らの保身のために従業員の首を切る企業が続出したのです。これは、「人の自然な情として」許しがたい非道です。かつては、よほどのことがないかぎり、社会的に許されない行為であった首切りが、リストラの美名の下に当然のように行われるようになったのです。しかも、マスコミも労働組合でさえ、リストラの名で行われる首切りに、批判の声を上げることはまれでした。やがて人々もまた、この非道を常識として受け入れた。 社会全体が不徳義を不徳義と認めていない場合、人は容易に、それを当たり前のこととして受け入れてしまう。自分を取り巻く状況が、いつの間にか常識となってしまうのです。 そのようなことから、「自分だけが正しい、自分の周りだけが正しい」と考えるのは人の常ですが、一歩踏み出して異論に耳を傾けることも大事なことであります。 この掲示板において、「意見の否定は人格の否定ではない」と言われ「ハッ」とし、「そのような考え方もあるのだな」と妙に感心しましたが、人として誤った方向に進んでいて気付かないことは大変危険なことであります。今でこそ、戦前の軍国主義は間違っていたと誰もが言いますが、当時は大多数の人たちが「撃ちてし止まむ」の精神でいたのです。また、現代の北朝鮮では「人の情として、あまりに不自然な」不徳義が社会全体を覆っています。しかしかの地では、それが人々の常識になっているらしいのです。 |
▼相良唯夫さん: >以上のような先生のお言葉があるように、この掲示板においても充分なる話し合いが出来ることは素晴らしいことであります。 >それなのに、活発な意見が飛び交っている途中でスレッドごとの削除は先生の仰る満点主義の弊害に通じると思いますが如何なものでしょうか? なださんが言われていることは、「和」の精神につながると思いますが、先に話題になりました「民主集中性」というようなものは、不自然であり、異なる者同士が高め合おうとか、合致点を見出そうとすることからは、根本的に外れているように思います。 また、強権的であり、そういうことと、都合が悪いことは権力の力で覆い隠してしまおうとか、そういうことと結びつくなら、全体主義ときわめて近い性格のものかと思います。 何だかんだ言っても同じ日本人なのですから、我々は「戦前の日本人」と同じ弱点を持った者かと思います。戦前の反対をやっているつもりで、実は全く同じファシズムを演じているのならば、驚くべき倒錯であり、私はその証拠は、法の恣意的な運用とか、異論を汲むのではなく追い出そうとする姿勢などに見ることが出来ると思います。 社会的にそういう姿勢が蔓延しているのが、実は、中国とか韓国、北朝鮮辺りでも共通したアジア的な悪弊であり、このアジア的な全体主義に対して案外「革新」の側で無自覚なのではないか、むしろ、かつての軍国主義者と同じ役割を果たしてしまってはいないのか、よくよく反省する必要がなくはないか、と思っています。 >社会全体が不徳義を不徳義と認めていない場合、人は容易に、それを当たり前のこととして受け入れてしまう。自分を取り巻く状況が、いつの間にか常識となってしまうのです。 不徳義を、不徳義であると認識することが出来ないということは、根本的に間違っている、ということです。自然の理に反するということです。不自然なことをするから、結局辻褄が合わなくなり、権力を振るわねばならず、それでますます不具合が露呈する。悪循環です。 >この掲示板において、「意見の否定は人格の否定ではない」と言われ「ハッ」とし、「そのような考え方もあるのだな」と妙に感心しましたが、人として誤った方向に進んでいて気付かないことは大変危険なことであります。今でこそ、戦前の軍国主義は間違っていたと誰もが言いますが、当時は大多数の人たちが「撃ちてし止まむ」の精神でいたのです。また、現代の北朝鮮では「人の情として、あまりに不自然な」不徳義が社会全体を覆っています。しかしかの地では、それが人々の常識になっているらしいのです。 私がいつも日常に思うのは、「当たり前にすることが、一番難しい」ということです。 私はどちらかというと、異論を撃滅してやりたいと思って正面攻撃を掛ける方ですが、相良さんのお話を聞くと、「むむ、待てよ・・・」と、立ち止まっていろいろ考えさせられます。 レスを付けよう、と思いながら、いざ書こうとすると深い内容のお話なので難しく、私の書いたものはとりとめのない内容になりました。 不徳義が蔓延する状態を招来してしまう、というのは、思うに、ごく自然なことを我々が「忘れてしまう」ことと関係があるように思います。特別難しいことを考えることが必要なのではなくて、ごく単純なことを、簡単に忘れてしまうのが私たちの弱点なのではないかなあ、と。 |
▼告天子さん: >私はどちらかというと、異論を撃滅してやりたいと思って正面攻撃を掛ける方ですが、相良さんのお話を聞くと、「むむ、待てよ・・・」と、立ち止まっていろいろ考えさせられます。 いやいや、私は告天子さんのように正論が言える知識を持ち合わせてないだけですよ。皆さんのご意見から勉強しています。 現状の肯定から改革する考え方と、とにかく現状を否定するという考え方では噛み合わないところが多くあります。私は先ずは現状を踏まえて(肯定して)物事を考えて行かなければと思います。 例えば現在行われている愛知万博ですが、当初は環境問題等を考えると反対の立場でいましたが、いろいろ改善され愛・地球博として立派に運営されています。 私も数回以上行きましたが、考えさせられたり、感動したり、むしろ応援しています。名古屋近辺の経済効果も予想以上だそうです。 開催に当り賛否両論はありましたが、決まって開催されている以上、成功させたいと思っています。 「民主集中制」なるものは分かりませんが、告天子さんのお話は分かりやすく感謝しています。 |