Page 53 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼真夜中のジョーク 柚子 05/4/27(水) 0:42 ┗ガランドウ 遍巳亭 05/4/28(木) 19:23 ┗Re(1):ガランドウ とうろう 05/4/29(金) 8:15 ┗Re(2):ガランドウ 遍巳亭 05/4/29(金) 11:46 ┗Re(3):ガランドウ とうろう 05/4/30(土) 22:47 ┗Re(4):ガランドウ 遍巳亭 05/5/1(日) 10:16 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 真夜中のジョーク ■名前 : 柚子 ■日付 : 05/4/27(水) 0:42 -------------------------------------------------------------------------
庶民の妬み 買い集めた貴金属でジャラジャラ飾ること。 新幹線のグリーン車に乗って自慢すること。 同行のお供達は普通車で。 西は芦屋夫人、東は鎌倉夫人と昔から申しますが、 鎌倉のお庭のあるお屋敷に住むこと。 画家だったか、作家だったか? 猛暑を逃れて、軽井沢で仕事をすること。 リッチにパリから、お便り書くこと。 弱者よりの「ジョーク」 |
客:がらんどう(注:内容が何もないこと、者)に付ける薬くださーい。 店主:ありません! 客:そう言わずに。 店主:それでは。 と、棚から取り出す。 薬:「名と実とは異なる虫の、虫刺さされにはムシムシ」とか、「経験」を粉末にした「ネット薬掲示板A錠」。 と、句会二次会。 客:がらんどう 無い物ねだりの がらんどう 店主:がらんどう 実が無くては がらんどう 薬:がらんどう 客と店主に 一滴 |
▼遍巳亭さん; おはようございます。 付和雷同になっているかどうか不明の駄句(習作)を一つ。 「「我執」なる 襤褸に満ちても がらんどう」 「「我執」てふ 襤褸に満ちたり がらんどう」 失礼しました。 |
▼とうろうさん: おはようございます。 >「「我執」なる 襤褸に満ちても がらんどう」 > >「「我執」てふ 襤褸に満ちたり がらんどう」 とおろうさんの知を重ねられたご見解と読ませていただくのですが、私などはまだ「我執」について、むしろ肯定的に考えたい段階です。 果実てふ 我執なければ がらんどう 「フォースを使え」とはどのような意味で使っているのかとのお尋ねに返答の時期を失ってしまいました。失礼いたしました。 仕事上の関わりでも個人的な関係でも、さらに老人党掲示板上の議論に於いても「妙だな、変だな」という感覚を覚えることがあります。その感覚は理屈に先行します。まずその感覚にそって判断をする、というような意味で使っています。ご案内の通り言葉そのものは「スターウォーズ」からの拝借です。 私の拙いジョーク、しかし「掲示板」を教材として批判的に見、考えますと「がらんどう」という言葉は少なくとも私にとっては、「掲示板」を見る、読むにあたっての視座を与えてくれます。 昨日ある本を読んでいましたらホームズ判事の言葉。 "the best test of truth is the power of the thought to get itself accepted in the competition of the market"とありました。 その言葉(思想)が真実か否かは人々に広く受け入れられるかどうかだ。受け入れられるか否かはその言葉自身の力による、という風にも読めます。言葉を発するのは人間です。「がらんどう」であるのなら「がらんどう」として伝わるのではないでしょうか。いかに巧みを尽くしたとしても。実を欠いては時のテストには合格できない。 なお掲示板ジョーク、このように書いていますと旧ソ連のアネクドート作者の気持ちが少しはわかるような気がします。 訂正 薬:「名と実とは異なる虫の、虫刺さされにはムシムシ」とか、「経験」を粉末にして固めた「ネット薬掲示板A錠」。 と、二次会、句会。 |
▼遍巳亭さん:こんばんは。 レス有難うございました。少し閑談をお許し下さい。 弊駄句については「襤褸」の語がきつく、「高踏的(否定的に使っております)」あるいは「不遜、傲慢」のご批判は免れ得ないものと覚悟しておりました。 しかし、昔の演歌にありますように 「ぼろ(襤褸)は着てても こころの錦 どんな花より きれいだぜ・・・」(水前寺清子「いっぽんどっこの歌」(星野哲郎作詞))とありますように、外形の「襤褸」を責めているのではありません。「こころ」の「襤褸」即ち「我執」を言ったつもりでした。 遍巳亭さんが「我執」について「肯定的に考えたい」と仰っている意味は、 「我執」を「自我を持ち、ASSERTIVE」とお考えの上のことかと理解しております。 私の理解するところ、「我執」と言う言葉は、NEGATIVE、否定的であり、「自我に拘り、他我(造語です)を認めず、自我に反する他人をひたすら、自我防衛のために、攻撃する」“AGRESSIVE”な行動の源を、言うものとして、先の習作駄句を作りました。 このような感じで、「付け句」(?)をしました。 なお、ホームズ判事(すみません。全くイメージがない方です)の言葉は、まさにアメリカ的、プラグマティズム的な言葉と思いました。全ては「受け入れるヒトの数で決まる」市場主義かと。 しかし、私は、受け入れる「ヒト」の数の多寡で、「自然の真実」が決まらないとも思っています(さる方との「ガリレイ・ガリレオ」のコメントで述べたことです)。勿論、政治的社会の方向は「票の数」の多寡で決める以外に手段は無いとも思っております。 「こころの襤褸」と「こころの錦」を言う所以は、ここに「も」あります。 なお、私は、落語、漫才、狂歌、川柳、ウィット、エスプリ、スピリッツ、ヒュウモア、アネクドートそして全ての「滑稽」は楽しめます(私自身は、シニカルなことしか言えませんが)。 春を実感する、今朝、素早く走る「蝿取り蜘蛛」を見ました、これを、懐かしく思って作った駄句を、無恥を承知のうえで下記します。 「生きて在(あ)り 蝿取り蜘蛛に 遭(あ)う日かな」 (「蝿取り蜘蛛」の季語、季節は知りません。何方かご教授ください) 閑話、失礼致しました。 |
▼とうろうさん: おはようございます。 >弊駄句については「襤褸」の語がきつく、「高踏的(否定的に使っております)」あるいは「不遜、傲慢」のご批判は免れ得ないものと覚悟しておりました。 まったくそのようには思いません。「襤褸」と「我執」は宗教的な(歴史的上の)人物像にもよくあう取り合わせと思われます。 >しかし、昔の演歌にありますように > >「ぼろ(襤褸)は着てても こころの錦 どんな花より きれいだぜ・・・」(水前寺清子「いっぽんどっこの歌」(星野哲郎作詞))とありますように、外形の「襤褸」を責めているのではありません。「こころ」の「襤褸」即ち「我執」を言ったつもりでした。 ご投稿から考えていたのですが、「我執」とはそもそも人間に備わっているものであって、それは移り変わるもので、簡単にとったり捨てたりできるものではないように思われます。むしろ、「我執」との格闘の中から様々に生まれるものがあったのではないでしょうか。そもそも「我執」が無ければ「我執論」は存在したでしょうか。 むしろ、綺麗な衣(我執の結晶)が風雪の中で次第に「襤褸」に高まっていく、それから、「襤褸」と「こころの錦」が接近していく、というのは宗教的な人間像に見られるところと思われるのですが。 お聞きしたいのですが、とうろうさんは「我執」をどのように定められているでしょうか。 「果実」を果実として成らしめているもの(DNA)は、利己的な遺伝子という見方がありますが、「我執」そのものものと見なされます。それはしかし、果実として成る(移り変わる)ことで自然の中に不可欠な位置を占めていきます。たとえば果実と虫との関係など。その果実は盛夏を経て凋み、朽ちていき(襤褸をまとうようになる)、豊かに土に帰る。 > >遍巳亭さんが「我執」について「肯定的に考えたい」と仰っている意味は、 > >「我執」を「自我を持ち、ASSERTIVE」とお考えの上のことかと理解しております。 上記のようなイメージをまず持っています。「我執」があればそれに対する「否定」の意識が生じます。その動的な移りゆき。 >私の理解するところ、「我執」と言う言葉は、NEGATIVE、否定的であり、「自我に拘り、他我(造語です)を認めず、自我に反する他人をひたすら、自我防衛のために、攻撃する」“AGRESSIVE”な行動の源を、言うものとして、先の習作駄句を作りました。 > 「他我」と言われるのですが、「自我と他我」について。「自我が他我と出会うと言うことはどのようなことなのか」、とうろうさんのご見解を伺えればと思います。 >なお、ホームズ判事(すみません。全くイメージがない方です)の言葉は、まさにアメリカ的、プラグマティズム的な言葉と思いました。全ては「受け入れるヒトの数で決まる」市場主義かと。 > >しかし、私は、受け入れる「ヒト」の数の多寡で、「自然の真実」が決まらないとも思っています(さる方との「ガリレイ・ガリレオ」のコメントで述べたことです)。勿論、政治的社会の方向は「票の数」の多寡で決める以外に手段は無いとも思っております。 > 「market」とは言論の交換される場(人間によって形成される)ということなのでしょう。「コモンセンス」への信頼がその背景、土台としてあるように思われます。「正しい言葉(思想)は行き渡っていく」というような楽観、コモンセンスへの信頼。ガリレオの認識は結局受け入れられました。 |