Page 568 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼人が人として生きられるように 年金者の妻 弥生 05/8/2(火) 11:08 ┣[管理人削除] ┃ ┣[管理人削除] ┃ ┃ ┗[管理人削除] ┃ ┃ ┗[管理人削除] ┃ ┃ ┣[管理人削除] ┃ ┃ ┗Re(5):人が人として生きられるように・訂正 桃李 05/8/4(木) 13:51 ┃ ┗削除対象一覧 管理スタッフ 05/8/4(木) 10:05 ┣Re(1):人が人として生きられるように ozone 05/8/3(水) 18:57 ┃ ┗[管理人削除] ┃ ┣[管理人削除] ┃ ┃ ┗[管理人削除] ┃ ┃ ┗Re(5):人が人として生きられるように ozone 05/8/3(水) 20:56 ┃ ┃ ┗Re(6):人が人として生きられるように 告天子 05/8/3(水) 21:02 ┃ ┃ ┗Re(7):人が人として生きられるように ozone 05/8/4(木) 19:00 ┃ ┃ ┣Re(8):人が人として生きられるように 告天子 05/8/4(木) 20:23 ┃ ┃ ┃ ┗Re(9):人が人として生きられるように ozone 05/8/4(木) 21:21 ┃ ┃ ┃ ┣Re(10):人が人として生きられるように ozone 05/8/4(木) 21:30 ┃ ┃ ┃ ┗Re(10):人が人として生きられるように 告天子 05/8/4(木) 21:31 ┃ ┃ ┗Re(8):人が人として生きられるように 松 05/8/5(金) 7:07 ┃ ┃ ┗Re(9):人が人として生きられるように ozone 05/8/5(金) 16:34 ┃ ┃ ┗Re(10):人が人として生きられるように 松 05/8/5(金) 20:56 ┃ ┃ ┗Re(11):人が人として生きられるように ozone 05/8/6(土) 0:08 ┃ ┃ ┗Re(12):人が人として生きられるように 松 05/8/6(土) 3:10 ┃ ┣Re(3):人が人として生きられるように ozone 05/8/3(水) 20:11 ┃ ┗Re(3):人が人として生きられるように ozone 05/8/4(木) 19:00 ┃ ┗Re(4):人が人として生きられるように 告天子 05/8/4(木) 20:15 ┣Re(1):人が人として生きられるように 相良唯夫 05/8/3(水) 23:01 ┣Re(1):人が人として生きられるように 告天子 05/8/4(木) 10:18 ┃ ┗Re(2):人が人として生きられるように ウミサチヒコ 05/8/4(木) 11:24 ┃ ┗Re(3):人が人として生きられるように 告天子 05/8/4(木) 15:23 ┗国民と国家は対立する たけチャン 05/8/4(木) 22:36 ┣日本国の終末 沈黙の初夏 05/8/4(木) 23:39 ┃ ┗Re(1):日本国の終末 rerere 05/8/5(金) 21:11 ┗Re(1):国民と国家は対立する 告天子 05/8/4(木) 23:47 ┗Re(2):国民と国家は対立する ステディ ベア 05/8/5(金) 13:32 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 人が人として生きられるように ■名前 : 年金者の妻 弥生 <harue@s7.dion.ne.jp> ■日付 : 05/8/2(火) 11:08 -------------------------------------------------------------------------
流水さん、草本さん今日は。草本さんこの間は突然書き込みしてすみませんでした。その後レスしてくださって有り難うございました。私はインターネットやパソコンの使い方あまり得意ではありません。それで忙しいのも重なって今日まで失礼しました。時々総合掲示板は読んでいます。いろいろな考え方がありますね。私は流水さんの意見に賛成です。三人が人質になったとき、家族の皆さんが自衛隊の撤退を泣きながら訴えていたこと今でも目に焼き付いています。 公明党の冬柴氏が自己責任論を最初に言ったではないかと思います。テレビで。 それから政府高官、マスメディア、インターネットを駆けめぐったんですよね。 人質の人たちを助けることより家族に対してのバッシングがすさまじかったこと思い出しました。当時私は老人党の掲示板で、どんなやりとりがあったのかは知りませんが自衛隊は撤退すべしと私も思いました。憲法を守る立場から当然のことだと思ったものです。政府が人質の安全救出に全力を尽くすことは当たり前のことだと思いました。 国民のために国家はあるのではないでしょうか?.... ところが日本政府や自衛隊をイラクに派遣したり賛成した人たちは、撤退の世論が高まるのを恐れて家族に対して卑劣ないやがらせをしたのでした。つづく |
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間違えたところを訂正します。 以下のアフリカの国境についての記述ですが、ウィーン会議は間違い ベルリン会議です。済みませんでした。 >>>一つの例として、植民地だったアフリカに、どういう風に国境がひかれたか、知らないの? >>>1885年のウィーン会議、しってるよね。 >> >>知りませんね。 > >それは勉強が足りないよ。歴史は、にんげんのあしあとだよ。人間の行いを洞察することでもあるんだよ。歴史は、国家という考え方ができあがる前からあるんだよ。 >その道のりを正しくたどろうとすれば、歴史は、自国を知るだけで完結することはないですよ。 >便宜上、枠を決め勉強させているだけだよ。 |
▼みなさま: Ray@スタッフです。 以下の書き込みは、掲示板のルールのうち ・掲示板を混乱させる恐れのある投稿(差別・侮蔑・罵倒・揶揄・誹謗中傷) ・削除対象書き込みに関連する投稿 に該当するため、削除対象としてスタッフ連絡板に移動しました。 掲示板をご利用の際は掲示板のルールおよびネットマナーに ご配慮くださるよう、よろしくお願い申し上げます。 ---- ●【58413】Re(1):人が人として生きられるように 告天子 - 05/8/3(水) 17:44 - ●【58434】Re(2):人が人として生きられるように 告天子 - 05/8/3(水) 19:34 - ●【58436】Re(2):人が人として生きられるように 桃李 - 05/8/3(水) 19:50 - ●【58437】Re(3):人が人として生きられるように 桃李 - 05/8/3(水) 19:54 - ●【58441】Re(3):人が人として生きられるように 告天子 - 05/8/3(水) 20:24 - ●【58443】Re(4):人が人として生きられるように 告天子 - 05/8/3(水) 20:30 - ●【58480】Re(4):人が人として生きられるように 桃李 - 05/8/4(木) 1:41 - ●【58481】Re(5):人が人として生きられるように 桃李 - 05/8/4(木) 1:46 - ●【58483】Re(6):人が人として生きられるように めだま君 - 05/8/4(木) 2:13 - ●【58484】Re(6):人が人として生きられるように 桃李 - 05/8/4(木) 2:19 - ●【58491】Re(5):人が人として生きられるように 告天子 - 05/8/4(木) 7:02 - ●【58492】Re(5):人が人として生きられるように 告天子 - 05/8/4(木) 7:03 - ●【58493】Re(5):人が人として生きられるように 告天子 - 05/8/4(木) 7:13 - ---- |
▼年金者の妻 弥生さん: 初めまして、ozoneです。 どうぞよろしく。 「人が人として生きられるように」。 何と素晴らしい願いでしょう。 人の命、生涯は何ものによっても代えることは出来ないと思っております。人が人として生きることが出来て個人の尊厳も輝いて来ると思います。 人が人として生きられなかったなら、どのようになるのでしょう。 他人の道具として落ちぶれることになるのでしょうか。 或い畜生道をさ迷うことになるのでしょうか。 理性を生命とする人間には耐えられないことです。 私も絶対的な価値として「人が人として生きられるように」を願って止みません。 > 国民のために国家はあるのではないでしょうか?.... 私も日本の社会に住む人たちが国家を形成し、しかも主権は国民にあるのですから、第一義的には国民のために国家はあると思います。 ですから国民は血税を出しているのです。 公務員をpublic servant、公僕と呼んでいますが、蓋し的を得た言葉だと思います。 戦前の天皇中心の国家主義の政治においては、国民は臣民として見下され、僕にすぎませんでした。第一義的には主権者が天皇の国家が中心でした。 先ず「お国のために」でした。 このような戦前の国家主義の政治と現在の国民主権・民主政治の国家を比較して見ると、国家と国民の関係の本質は浮き彫りになって来るのではないでしょうか。 |
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▼告天子さん: 横から失礼します。 >もしあなたが、本当に「人が人として生きる」ことを大事に思っているのならば、私と対立することなどないはずです。それでは。 大事にしているから対立するのです。客観的に見れば一目瞭然です。 |
▼ozoneさん: >▼告天子さん: > >横から失礼します。 > >>もしあなたが、本当に「人が人として生きる」ことを大事に思っているのならば、私と対立することなどないはずです。それでは。 > >大事にしているから対立するのです。客観的に見れば一目瞭然です。 それは違います。大事にしているものが違う、ということです。人を大事にしているつもりでいて、実はもっと別のものを大事にしている、ならどうでしょう。 あなたが「個々の国民」ではなく「主権者としての国民」、と言い張って決して譲らないようにね。対立が一目瞭然というのは、実はそこに、深い倒錯と闇があるのですよ。人間の無明がね。 |
▼告天子さん: >あなたが「個々の国民」ではなく「主権者としての国民」、と言い張って決して譲らないようにね。対立が一目瞭然というのは、実はそこに、深い倒錯と闇があるのですよ。人間の無明がね。 私は主権は国民にあると考えております。 主権が国民にあるのだから主権者としての国民と言っております。 また、日本国憲法の国民主権は、People主権即ち人民主権と解しております。 (「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書) 主権の概念は、歴史の発展に対応して、Nation主権からPeople主権に変わって来ております。 |
▼ozoneさん: >▼告天子さん: > >>あなたが「個々の国民」ではなく「主権者としての国民」、と言い張って決して譲らないようにね。対立が一目瞭然というのは、実はそこに、深い倒錯と闇があるのですよ。人間の無明がね。 > >私は主権は国民にあると考えております。 別に、ozoneさんが考えなくとも、日本国憲法にそう書いてあります。ただし、その「国民」とは、個々の国民(人民)ではなく、総体としての日本国民、という意味でしょう。そうでなければ、一条の説明がつかなくなります。つまり、ozoneさんの「個々の国民が主権者」という説は誤りです。 >主権が国民にあるのだから主権者としての国民と言っております。 それは、個々の国民と、全体としての国民を区別しない考え方です。 >また、日本国憲法の国民主権は、People主権即ち人民主権と解しております。 >(「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書) 以上あげた理由から、人民主権であるという説は正しくないと考えます。 また、人民主権であるなら、「全ての人民が、憲法に於いて天皇を日本国のシンボルとして定めたのだ」ということになります。よって、天皇の権威を否定するような者は、まさしくその個人が「憲法に反する」という結論が導かれると思いますが・・・。 >主権の概念は、歴史の発展に対応して、Nation主権からPeople主権に変わって来ております。 これも、「理性的にはこうなるはずなのだ」という私説のたぐいであって、私が従わなければならない理由はないし、日本国があなたの説の通りであらねばならない理由もありません。 人民主権に変わったのだというのであれば、どうして中国のような国では、あのような「皇帝」とも言うべき権力者が存在して、人民が抑圧されているのですか。歴史の趨勢に反していると思いますが。 |
▼告天子さん: >▼ozoneさん: >>▼告天子さん: >> >>>あなたが「個々の国民」ではなく「主権者としての国民」、と言い張って決して譲らないようにね。対立が一目瞭然というのは、実はそこに、深い倒錯と闇があるのですよ。人間の無明がね。 >> >>私は主権は国民にあると考えております。 > >別に、ozoneさんが考えなくとも、日本国憲法にそう書いてあります。ただし、その「国民」とは、個々の国民(人民)ではなく、総体としての日本国民、という意味でしょう。そうでなければ、一条の説明がつかなくなります。つまり、ozoneさんの「個々の国民が主権者」という説は誤りです。 > > >>主権が国民にあるのだから主権者としての国民と言っております。 > >それは、個々の国民と、全体としての国民を区別しない考え方です。 > > >>また、日本国憲法の国民主権は、People主権即ち人民主権と解しております。 >>(「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書) > >以上あげた理由から、人民主権であるという説は正しくないと考えます。 > >また、人民主権であるなら、「全ての人民が、憲法に於いて天皇を日本国のシンボルとして定めたのだ」ということになります。よって、天皇の権威を否定するような者は、まさしくその個人が「憲法に反する」という結論が導かれると思いますが・・・。 > > >>主権の概念は、歴史の発展に対応して、Nation主権からPeople主権に変わって来ております。 > >これも、「理性的にはこうなるはずなのだ」という私説のたぐいであって、私が従わなければならない理由はないし、日本国があなたの説の通りであらねばならない理由もありません。 > >人民主権に変わったのだというのであれば、どうして中国のような国では、あのような「皇帝」とも言うべき権力者が存在して、人民が抑圧されているのですか。歴史の趨勢に反していると思いますが。 私も貴方も思い込みが激しい人間のようですから、【58573】と本アーテクルに関して[「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書]を読んでみて見て下さい。 思い込み同志が論議していくとエンドレスになりますから。 この件につきましてはこれで失礼します。 |
▼ozoneさん: >▼告天子さん: >>▼ozoneさん: >>>▼告天子さん: >>> 下記のように訂正します。 (誤り) ------------------------------------------ >私も貴方も思い込みが激しい人間のようですから、【58573】と本アーテクルに関して[「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書]を読んでみて見て下さい。 > >思い込み同志が論議していくとエンドレスになりますから。 この件につきましてはこれで失礼します。 ----------------------------------------- (正) ----------------------------------------- >私も貴方も思い込みが激しい人間のようですから、直前のアーテクルと本アーテクルに関して[「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書]を読んでみて見て下さい。 > >思い込み同志が論議していくとエンドレスになりますから。 この件につきましてはこれで失礼します。 ----------------------------------------- |
▼ozoneさん: >私も貴方も思い込みが激しい人間のようですから、【58573】と本アーテクルに関して[「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書]を読んでみて見て下さい。 機会があれば読んでみますが、正直なところ読書意欲は湧きません。 >思い込み同志が論議していくとエンドレスになりますから。 この件につきましてはこれで失礼します。 打ち切りということは、了解しました。しかし、法は客観的なものであり、理性は主観的なものに過ぎません。理性的かどうか、は得てして主観に落ち込んでいく話でしょう。 私は思いこみで話をしているのではありません。客観的に、法ではこうなっている、歴史事実はこうである、ということを話しています。そこに私の主観や個性といったものは、何ら必要ではありません。 |
▼ozoneさん、おはようございます。 少しだけ瑣末な指摘を。 >また、日本国憲法の国民主権は、People主権即ち人民主権と解しております。 >(「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書) ここで仰っておられるのはプープル主権の事だと思いますが、正しいつづりはPeupleです。 >主権の概念は、歴史の発展に対応して、Nation主権からPeople主権に変わって来ております。 プープル主権とナシオン主権は、フランス憲法で言われる区別ですが、日本の憲法解釈にそのまま妥当するのかどうかは疑問だ、という考えが最近では主流のようです。 以上、失礼しました。 |
▼松さん: >▼ozoneさん、おはようございます。 > >少しだけ瑣末な指摘を。 > >>また、日本国憲法の国民主権は、People主権即ち人民主権と解しております。 >>(「憲法読本」第3版 杉原泰雄著、岩波ジュニア新書) > >ここで仰っておられるのはプープル主権の事だと思いますが、正しいつづりはPeupleです。 フランス語表記ではPeuple。 英語表記ではPeopleだそうです。 >>主権の概念は、歴史の発展に対応して、Nation主権からPeople主権に変わって来ております。 > >プープル主権とナシオン主権は、フランス憲法で言われる区別ですが、日本の憲法解釈にそのまま妥当するのかどうかは疑問だ、という考えが最近では主流のようです。 ブルジョワジー(資本家層)が勝利を占めたフランス革命は、Nation主権を憲法原理としてうちたてたそうです。 そうすることによって、資本主義の展開に反対する民衆層の政治参加をしりぞけ、お金持ちから選ばれた国民代表によって、資本主義の展開に必要な法律を整備したそうです。 事実、フランス革命は、普通選挙制度さえも認めはしなかったそうです。 しかし、その後、労働運動・民衆運動が強まるにつれて、また民主主義思想・平等思想が普及するにつれて、さらには日常のつかい方では、「国民」が「人民」と混同されていることもあって、「国民主権」はしだいに「人民主権」の方向に変化してきているそうです。 「人民主権」の到来はさけることはできないそうです。 現在では、「人民」の意味での国民が主権者だという考えだという考え方が、一般の国民のあいだではあたりまえになっているそうです。 それに従って、政治のあり方も、普通選挙制度をとり入れたり、直接民主制を認めたりするようになってきているそうです。 また、「人民による、人民のための政治」をもっともおこないやすいのは、規模の小さい地方公共団体だそうです。 「人民主権」の考え方が一般化するにつれて、地方自治も重視されていくようになるそうです。 日本国憲法の国民主権は、People主権と訳されており、「人民主権」に相当すると解されておるそうです。 既に記しました、現代政治学の硬学、憲法学者、杉原泰雄先生の「憲法読本」第3版(岩波ジュニア新書)が大変分りやすく、また興味深く教えてくれております。 |
▼ozoneさん、ご解説ありがとうございます。 >フランス語表記ではPeuple。 英語表記ではPeopleだそうです。 恥ずかしながらこれは存じませんでした。 失礼いたしました。 >>>主権の概念は、歴史の発展に対応して、Nation主権からPeople主権に変わって来ております。 > >(中略) > >日本国憲法の国民主権は、People主権と訳されており、「人民主権」に相当すると解されておるそうです。 > >既に記しました、現代政治学の硬学、憲法学者、杉原泰雄先生の「憲法読本」第3版(岩波ジュニア新書)が大変分りやすく、また興味深く教えてくれております。 フランスにおけるナシオン主権からプープル主権への変遷とその帰結については、仰っている事は間違いではないと思います。 しかし、これはフランスの考え方であり、日本では別です。 これを日本の国民主権にも当てはめて考えていこうという考え方は一時期確かにありました。 しかし、性質の異なるものを日本にそのまま輸入する事になってしまい、かえって議論を混乱させてしまう、として現在この考えは批判を受けています。 何故ならば、日本で「全国民が国民だ」という時の「国民」は、観念的・抽象的な国民ではなく、1人ひとりの具体的な全国民を想定しているのが一般的だと思われるからです。 したがって、日本国憲法がナシオン主権かプープル主権かという議論の立て方自体があまり意味がありません。 |
▼松さん: >▼ozoneさん、ご解説ありがとうございます。 > >>フランス語表記ではPeuple。 英語表記ではPeopleだそうです。 > >恥ずかしながらこれは存じませんでした。 >失礼いたしました。 > > >>>>主権の概念は、歴史の発展に対応して、Nation主権からPeople主権に変わって来ております。 >> >>(中略) >> >>日本国憲法の国民主権は、People主権と訳されており、「人民主権」に相当すると解されておるそうです。 >> >>既に記しました、現代政治学の硬学、憲法学者、杉原泰雄先生の「憲法読本」第3版(岩波ジュニア新書)が大変分りやすく、また興味深く教えてくれております。 > > >フランスにおけるナシオン主権からプープル主権への変遷とその帰結については、仰っている事は間違いではないと思います。 > >しかし、これはフランスの考え方であり、日本では別です。 > >これを日本の国民主権にも当てはめて考えていこうという考え方は一時期確かにありました。 >しかし、性質の異なるものを日本にそのまま輸入する事になってしまい、かえって議論を混乱させてしまう、として現在この考えは批判を受けています。 > >何故ならば、日本で「全国民が国民だ」という時の「国民」は、観念的・抽象的な国民ではなく、1人ひとりの具体的な全国民を想定しているのが一般的だと思われるからです。 > >したがって、日本国憲法がナシオン主権かプープル主権かという議論の立て方自体があまり意味がありません。 前記の杉原先生は「国民主権」(ナシオン主権、Nation主権)と「人民主権」(プープル主権、People主権)を夫々、概略、次のように説明しております。 ●「国民主権」: 生まれた直後の赤ちゃんから死の直前の老人までのすべてをふくめた国籍を有する全国民が統治権を「単一・不可分・不可譲」の財産としてもっている。 このような全国民は、じっさいにはどんな行動もすることができない集団。統治権を自分で行使することも出来ない。 国民代表と呼ばれる国民の一部に、その行使をまかせざるをえない。 統治権は全国民だけのものであり、国民は個人としてはそれについていかなる権利ももっていないから、国民代表のおこなう政治に注文をつけたり拒否をしたりする権利ももっていない。 個々の国民は、同様にして、統治権の行使(政治)に当然に参加できるわけでもなく、また、選挙権を当然に認められるわけでもない。「国民主権」は、制限選挙制度による国民代表の選挙さえも認める。 ●これにたいして「人民主権」のもとでは、事情がまったく異なる: 「人民」の意味での国民は、その構成、政治に参加できる年齢に達した国民(市民の集まり)からも明らかなように、自分で統治権を行使し、意志決定をすることができる。 しかも、そこでは、国民(人民)の利益や意志は、それを構成している個々の市民の利益や意志を集めたものと考えられている。 したがって、国民(人民)を構成しているすべての市民が統治権の行使に参加する当然の権利をもち、直接民主制が政治の原則となる。 代表制をとる場合でも、代表は国民(人民)の意志にしばられ、国民(人民)の意志に当然にしたがわなければならない。 この「人民主権」のもとでは、統治権は、国民(人民)のものだから、国民(人民)の意志にしたがって、国民(人民)のために、国民(人民)に責任を負いながら行使しなければならない、とする民主主義の原則が当然のこととなる。 そこでは、政治は「人民の、人民による、人民のための政治」でなければならない。 以上です。 松さんの造詣の深さに敬服しております。 上記の「憲法読本」第3版をお読みになることをお薦めします。 必ずや松さんの素晴らしい能力に花が開くことを確信しております。 |
▼ozoneさん、ありがとうございます。 ご投稿読ませていただきました。 ナシオン主権とプープル主権について、それぞれ国民主権と人民主権という日本語で説明されており、わかりやすくて助かりました。 簡略で丁寧なご説明ありがとうございます。 失礼して、いただいたお答えに対しての私の考えを書いてみたいと思います。 >●「国民主権」: > 生まれた直後の赤ちゃんから死の直前の老人までのすべてをふくめた国籍を有する全国民が統治権を「単一・不可分・不可譲」の財産としてもっている。 このような全国民は、じっさいにはどんな行動もすることができない集団。統治権を自分で行使することも出来ない。 国民代表と呼ばれる国民の一部に、その行使をまかせざるをえない。 統治権は全国民だけのものであり、国民は個人としてはそれについていかなる権利ももっていないから、国民代表のおこなう政治に注文をつけたり拒否をしたりする権利ももっていない。 > 個々の国民は、同様にして、統治権の行使(政治)に当然に参加できるわけでもなく、また、選挙権を当然に認められるわけでもない。「国民主権」は、制限選挙制度による国民代表の選挙さえも認める。 ここでは国民を >生まれた直後の赤ちゃんから死の直前の老人までのすべてをふくめた国籍を有する全国民 とされておられますが、ナシオン主権における国民はこの限りにとどまりません。 ナシオン主権の「ナシオン」とは 過去・現在・未来にわたる観念的・抽象的な国民を「ナシオン」と呼びます つまり、ここで国民と言われるのは観念的・抽象的な国民であって、実際に生存し存在する1人ひとりの具体的な国民のみを指すのではありません。 「国民」というものをこの様なわけのわからぬ漠然とした集団、として捉え、そこから自由委任と制限選挙という結論が導かれました。 >●これにたいして「人民主権」のもとでは、事情がまったく異なる: > >「人民」の意味での国民は、その構成、政治に参加できる年齢に達した国民(市民の集まり)からも明らかなように、自分で統治権を行使し、意志決定をすることができる。 しかも、そこでは、国民(人民)の利益や意志は、それを構成している個々の市民の利益や意志を集めたものと考えられている。 この人民主権というのはプープル主権の事だとの事ですが、これはほぼその通りだと思います。 プープル主権のプープルとは、有権者の総体、と言っていいと思います。 これはナシオン主権の様なわかりにくい漠然とした集団ではなく、具体的な国民に国政を動かす力があるのだ、として生まれた考え方です。 そこから命令委任という考え方と直接選挙という考えが導かれました。 しかし、このプープル主権の言う国民でも、「有権者の総体」という、現在の日本人が思っている「国民」よりも抽象的で漠然とした存在なのです。 ozoneさんのご投稿から、杉原先生のお考えはとても読みやすくてわかりやすいのであろうと思いました。 しかし、上で説明した通り、やはり本来の形からは若干変わってしまっています。 また、これらの説明を読んでもこのナシオン主権とプープル主権をあまり理解できない、と感じる方が多いと思うのですが、その「わかりにくい」という事実こそが、この両主権の考え方と、日本人が考えている「国民」という存在との乖離を証明していると思うのです。 日本では、「国民」とは、この様な漠然とした抽象的な存在ではなく、一人ひとりが実在するもっと具体的な存在です。 「私たち」一人ひとりが国民なのだ、そう考えている人が日本では一般的なのではないでしょうか。 それゆえ、このナシオン主権とプープル主権を日本に輸入して無理に当てはめても混乱するだけ、という批判は妥当であると、私には感じられます。 >松さんの造詣の深さに敬服しております。 上記の「憲法読本」第3版をお読みになることをお薦めします。 必ずや松さんの素晴らしい能力に花が開くことを確信しております。 お褒め頂きありがとうございます。 ご紹介いただいた本、機会を見つけて読んでみたいと思います。 丁寧に応対していただき感謝しております。 どうもありがとうございました。 |
▼告天子さん: >▼ozoneさん: >>▼年金者の妻 弥生さん: > >横レスします。 > また、私がレスをすると長くなり皆様にご迷惑をかけますから、今回は見送ります。 とにかく私は第一義的には「国民のために国家はある」と考えます。 |
▼告天子さん: >>戦前の天皇中心の国家主義の政治においては、国民は臣民として見下され、僕にすぎませんでした。第一義的には主権者が天皇の国家が中心でした。 先ず「お国のために」でした。 > >国民は臣民として平等なのですから、見下す人など誰もおりませんよ?? 主権を有していた天皇が国民の皆さんを「汝、臣民(家来)」と呼んで、見下していました。 >天皇が主権者だ、などと、帝国憲法には書いていないので、あまりいい加減な説明はされない方がよろしいかと思います。主権、というのは西洋的な概念ですので、これを一概に日本国に当てはめるのは、方法としておかしいのですよ。 戦前において日本では「主権」、「主権は天皇の手中にある」等という表現は使われております。 主権論争もありました。 明治憲法では第四条で天皇の統治権がうたわれております。統治権は政治学では主権のことです。 |
▼ozoneさん: >>国民は臣民として平等なのですから、見下す人など誰もおりませんよ?? > >主権を有していた天皇が国民の皆さんを「汝、臣民(家来)」と呼んで、見下していました。 それならば、天皇陛下が日本国民全部を見下しており、全ての国民は天皇が見下していたと感じていた、ということですね。戦前の事実に、全く反すると思いますが。 あなたは、現実からではなくあなたの「理念から」現実を解釈し、人もそれに合わせなければならないという論法で話を進めるから、結局私を「ozoneさんの解釈した現実」に住まわせるよう強制するような、そういう話になっていると思います。 >>天皇が主権者だ、などと、帝国憲法には書いていないので、あまりいい加減な説明はされない方がよろしいかと思います。主権、というのは西洋的な概念ですので、これを一概に日本国に当てはめるのは、方法としておかしいのですよ。 > >戦前において日本では「主権」、「主権は天皇の手中にある」等という表現は使われております。 主権論争もありました。 主権論争はありましたよ。しかし、そういう議論で日本国の「主権」について明かしたことにはならないから、国民主権の日本国憲法下でも、天皇の位置づけが結局しっくり来ないではないですか。主権、という考え方が、日本の国情を説明し尽くせないことの証拠です。また、論争があったということは、定説が一つではなかった、ということです。第一、「主権論争があった」では、私の上の文に対する批判になっていません。 >明治憲法では第四条で天皇の統治権がうたわれております。統治権は政治学では主権のことです。 なら主権、と書いているはずですが。「こう解釈できるはずですが」、というのは、以前に指摘した「勝手読み」というものに当たるわけです。 主権論、というのは、今でもいろいろな説があって、なかなか一概に言えないものです。 ozoneさんのお説は、まず「天皇主権だった」という結論が先にあって、それに当てはめるためにいろいろ理由をくっつける、という構成になっていますので、出来れば別スレッドで、独自にお説を展開していただくことを提案します。 |
▼年金者の妻 弥生さん: はじめまして。 「人が人として生きられるように」というタイトルから、 「人が人として生きられてない社会」であるとお考えですね。 虐待されている子供も、いじめられている子供も、そして大人も、恐怖にさらされていては人として生きている心地はしないかもしれません。 そのようなことがないように努めることは国家として当然のことでしょう。 その国家をつくっているのは国民一人一人です。国民一人一人が仕え合い、支え合う社会をつくっていかなければなりません。 ダメな政治家をダメであるということも大切であります。政府を批判することも十分肯けます。しかし、闇雲にダメであると言えばいいのではありません。 なぜならば、「良い日本を築こう」という同じ思いに立っても色々な見方、あるいは方法があるのです。それだから色々な政党があり、色々な主張があるのです。 頭ごなしに、「あんたはダメな子だ!」と罵っての育て方に対し、褒めて育てる方がいて、親の資質が子に影響することは明らかなように、国民の資質が国家をつくっていくのです。ということは「人が人として生きるための守るべきすじみち」があるのです。 そのすじみちから外れただけ、「人として生きにくくなる」のです。 政治家がすじみちから外れておれば国民は不幸です。 ここの板においても、言葉尻とか、感情ではなく、「ここはどうですか?」というぐらいの「話し合おう」という意識がなければ、絶対に平和国家など建設されませんし、「人が人として生きられる」社会を築くことは出来ない。 見方、考え方が違うから当然であるかもしれませんが、告天子さんの仰る言葉には一言一言「すじ」が通っている思います。その言葉の中で疑問があればそれを正すように質問されたら如何でしょう。ちゃんとお答えになりますよ。 > 流水さん、草本さん今日は。草本さんこの間は突然書き込みしてすみませんでした。その後レスしてくださって有り難うございました。私はインターネットやパソコンの使い方あまり得意ではありません。それで忙しいのも重なって今日まで失礼しました。時々総合掲示板は読んでいます。いろいろな考え方がありますね。私は流水さんの意見に賛成です。三人が人質になったとき、家族の皆さんが自衛隊の撤退を泣きながら訴えていたこと今でも目に焼き付いています。 > >公明党の冬柴氏が自己責任論を最初に言ったではないかと思います。テレビで。 >それから政府高官、マスメディア、インターネットを駆けめぐったんですよね。 >人質の人たちを助けることより家族に対してのバッシングがすさまじかったこと思い出しました。当時私は老人党の掲示板で、どんなやりとりがあったのかは知りませんが自衛隊は撤退すべしと私も思いました。憲法を守る立場から当然のことだと思ったものです。政府が人質の安全救出に全力を尽くすことは当たり前のことだと思いました。 > 国民のために国家はあるのではないでしょうか?.... > ところが日本政府や自衛隊をイラクに派遣したり賛成した人たちは、撤退の世論が高まるのを恐れて家族に対して卑劣ないやがらせをしたのでした。つづく |
▼年金者の妻 弥生さん: > 国民のために国家はあるのではないでしょうか?.... 管理人から注意があったので、改めて書きます。 国民のために国家がある、というのは、「何々のために、何かが存在する」という存在規定ですが、国家というのは「国民が作った」ものではなく、自然に存在しているものです。日本国の場合、とりわけその性格が強いでしょう。 「国民のために国家がある」という規定は、誤りです。 これは、「国家のために国民がある」という規定が誤りであるのと同じことです。両者は、お互いに高次に補い合うべきものでしょう。 「人が人として生きられる」ということが、妨げられているのは、国家のせいである、という筋のようですが、我々はその「国家の一員」でもあるのです。国家の局外者ではないのです。 だから、「人として」政府のすることに反対する、とかいうのであれば、これはごく自然なことです。しかし、「人として」国家そのものの在り方を否定するような、目的のためなら手段を選ばずに、国家そのものを自らの奴僕とみなすような「人」、というのは、もはや中世の専制の君主にも劣らぬ、法を超越した「権力」主体となります。 そのような「権力の主体」を正当化するために「人が人として生きる」という言葉が使われるなら、これは本来の意義から全く倒錯した使い方になると思います。 |
▼告天子さん: >国家というのは自然に存在しているものです。 「国家が国民のためにある」という命題を否定するのにあなたは「国家は自然存在である」という命題を対置していますが、トンチンカンですね。 ここでは、国家が社会的存在であるか自然的存在であるかが問われているのではありません。その国家が、「誰のためにあるのか」が問題になっているのですから。 分かり易く例を上げて述べてみましょう。私とあなたの会話としましょう。 私「A子ちゃんは私のためにある」 あなた「いや、A子ちゃんはスッピンである」 どうです?なんかおかしいでしょ? ところで、それば置いておくとして、もし、あらゆるシステムを含め人間社会を「自然の一部」と捉えれば「国家=自然」という考え方は成り立ちますが、「国家は何だ、何のためにあるか、誰が作ったか」と問う場合、「自然存在である」という答えには問題があります。 人間の歴史はすべて作られた歴史である。 いまの日本は8・15革命というアメリカの武力民主主義革命によって作られた国家です。これを自然の存在とは言えない。国家とははっきりと社会的存在なのです。縄文時代(今のイヌイットのような)を経て、日本の国家は徐々に形作られて来ましたが、貴族社会、武家社会、天皇制社会、そして今の日本です。天皇制社会と今の社会は「自然」というには不似合いな不連続(革命)を内包しています。 今の日本社会は、そういうわけで8・15を契機に、民主主義的制度と暴力装置(占領軍、自衛隊、警察)をはじめから持つ国家として成立しました。何も選挙で我々の国体を決定したわけではありません。武力(米軍・連合軍)の力を背景に選挙でそれを追認させられたに過ぎません。 国家は何のためにあるか、誰のためにあるか、それを考えるには8・15が一つの起点になります。冷徹に言えば、日本国家はアメリカ(連合軍)のためにあるのであり、アメリカ(連合軍)の世界支配のためにあるのです。少なくとも、サンフランシスコ単独講和(ソ連圏との講和は除き)条約まではそうでした。しかし、今日に至るまで、日本の国家はその延長上で国体が維持されています。 現実は上記の通りですが、みかけは、民主主義の概念では、国家は国民の総意によって運営するものとされるわけですから「国家は国民のためにある」ということになります。なにも国家と国民は「対等」でもなければ「補いあう」存在でもありません。年金者の妻・弥生さんの言っていることが間違っているとは思いません。 |
▼ウミサチヒコさん: >▼告天子さん: >>国家というのは自然に存在しているものです。 >「国家が国民のためにある」という命題を否定するのにあなたは「国家は自然存在である」という命題を対置していますが、トンチンカンですね。 トンカチは釘を叩くために存在する、それはその目的のために人間が作ったものである、ということから、そういう話題になるのです。自然に存在しているものは、「何かのために」存在しているのではないわけですね。 で、「誰かのためにあるはずだ」、というのは、主権論と同じく、ある種の観念論なのですよ。観念論というのは、ドグマですから。基本的に、先験的な、根拠なき言いなしに過ぎないわけですね。 また、国家=自然、と等式で結ぶのも、単純に誤りです。国家、というものを、「具体的には、何を指して言っているのか」も不分明なまま、「国家」という言葉自体が一人歩きしていますし・・・。こういうスタイルの議論は、私はあまり好みません。 >人間の歴史はすべて作られた歴史である。 人為には限りがあります。うまく行くと思っても、結果はその通りにならないこと、こんな小さな掲示板社会に於いても、そうでしょう?。社会がどう動くかなど、人知では計り知れないのです。 終戦に関係しての歴史観については、ここではスレッドの話題に関係ないと思われるので、コメントは控えさせていただきます。 >現実は上記の通りですが、みかけは、民主主義の概念では、国家は国民の総意によって運営するものとされるわけですから「国家は国民のためにある」ということになります。なにも国家と国民は「対等」でもなければ「補いあう」存在でもありません。年金者の妻・弥生さんの言っていることが間違っているとは思いません。 年金者の妻・弥生さんは、「人が人として」と言っているのであり、「国民として」というようなことはむしろ言っていないでしょう。「国民以前の、ヒトとして」、ということをむしろ仰りたいのでしょう。 私は反対に、そういう「人としての立場」が暴走することを懸念する立場であります。 ( 桃李さん、立派な姿勢に、敬意を表します ) |
▼年金者の妻 弥生さん: 今から40年前を思い出す。学校の授業をほったらかしにして、マルクスの本、社会学の本を読んでは、仲間と議論をしていた。本ばかり読んでいると、議論の内容がどうしても抽象的になる。何も分っていないのに、分ったような雰囲気になる。何を話していたのか、今では全然、思い出せない。 思い出すのは、女子学生の話であった。神が実在すると信じて止まない、にきび顔の女子学生もいた。身近な問題から議論したらどうかと忠告した女子学生もいた。 具体性が重要との指摘でもあった。「人が人として生きられるように」のテーマは、告天子さんの名前のように、非常にきざで、気取った言い方でないところが良い。 「人と国家の対立」 人は国家と対立するから、そもそも憲法と言うものがある。憲法によって人は、国家の主権、基本的人権、思想、宗教、表現の自由を保障されている。日本国憲法が無ければ、日本人は今頃日本国家から拉致されて、イラクの戦場に奴隷として送り込まれているはずじゃwwwwww。 「人と国家の対立点」 公務員の平均給与は年収で1000万円である。方や民間平均年収は300万円から400万円である。何で公僕が主人の3倍も給与が貰えるの?不思議だな。 公務員は民間の年金資金である厚生年金を勝手に使い込んで、相当な穴を開けているが、公務員の共済年金には一切手を突けていない。仲間のカネには手を付けないが、国民(奴隷、奴婢)のカネには手をつけ放題である。ばれなければやりたい砲台である。ばれても誰も責任を取らない。東条英機のように、無責任体質の権化である。これで、国民と国家は対立しないという輩は、オツムが無いと思われる。 「性質の悪い日本国家」 奴隷奴婢のように考えられている日本国民は、世界で最も従順である。アメリカ、中国、アフリカなら暴動になっても可笑しくないことを、日本の公務員は当たり前の顔をして行っている。従順ということは、半分未来を諦めていることである。したがって、今をせいぜい楽しんでおこうと、やけくそ気味である。当然、子供など生んでおれない。 「少子化は最も厳しい国家への批判である」 日本では暴動がない代わりに、少子化で徐々に国家の存立基盤を失っている。 21世紀が終わる頃には、私の予想では総人口は3000万人である。丁度江戸時代末期の人口水準である。静かな日本になって良いかも。始まりがあれば終わりがある。 |
>「少子化は最も厳しい国家への批判である」 >日本では暴動がない代わりに、少子化で徐々に国家の存立基盤を失っている。 >21世紀が終わる頃には、私の予想では総人口は3000万人である。丁度江戸時代末>期の人口水準である。静かな日本になって良いかも。始まりがあれば終わりがあ >る。 どこで拾ってきた言葉か知らないが貴殿にしては上出来である。 つまるところ、 選挙における投票率の低下など問題にならないところで 国家への批判は既に庶民レベルでは実践されているのかもしれんな。 今の日本で、 これ以上の実効性のある政権批判はあるまい。 庶民はもう、 子孫など残さず、金持ちにこの国を譲ってしまおう。 貧乏人のいない国では兵隊もいない。 戦争などしたくてもできまい。 どうしてもやりたくば官僚の子供達が最前線に出ればよろしい。アッハッハ 長期的な視野で見れば、 国民を大事にしない国家など繁栄できるわけがない。 官僚国家の終焉が一日も早くくることを望むものである。 |
▼沈黙の初夏さん:こんにちは >>「少子化は最も厳しい国家への批判である」 >つまるところ、 >選挙における投票率の低下など問題にならないところで >国家への批判は既に庶民レベルでは実践されているのかもしれんな。 > >今の日本で、 >これ以上の実効性のある政権批判はあるまい。 > >庶民はもう、 >子孫など残さず、金持ちにこの国を譲ってしまおう。 > >貧乏人のいない国では兵隊もいない。 >戦争などしたくてもできまい。 > >どうしてもやりたくば官僚の子供達が最前線に出ればよろしい。アッハッハ > >長期的な視野で見れば、 >国民を大事にしない国家など繁栄できるわけがない。 > なるほど、これは気付きませんでした。一種の sabotage なのかもしれない。少子化は国家への批判であり、結果的に破壊行為とも言えそうです。 >官僚国家の終焉が一日も早くくることを望むものである。 そもそも奴隷からの上がりで生きている彼らは、取り上げるものがなくなるほど奪ったり、奴隷そのものがいなくなってしまうと生きられない。 実は年金崩壊を最も心配しているのは流用ができなくなってしまう官僚たちではないでしょうか。少子化を心配するより国民年金の未納率が40%もあることのほうが問題であることに気付いているだろうか。いくら生まれてきても国民年金すら払えないものばかりじゃ彼らの奴隷にもならないでしょう。 失礼しました。 |
▼たけチャンさん: >「人と国家の対立」 >人は国家と対立するから、そもそも憲法と言うものがある。 歴史的事実を無視した、教条でしょう。たとえば英国では、国王と貴族・人民が対立したから、マグナ・カルタなどの憲法がある。アメリカでは、人民が合衆国のためにこの憲法を制定するのだ、と憲法自らで宣言している。「国家を縛る」などという話はどこにもない。 つまり、上の文は、たけチャン氏の反国家的な思想は表していても、歴史的事実を表す表現ではないでしょう。 >憲法によって人は、国家の主権、基本的人権、思想、宗教、表現の自由を保障されている。日本国憲法が無ければ、日本人は今頃日本国家から拉致されて、イラクの戦場に奴隷として送り込まれているはずじゃwwwwww。 人は、と簡単に一般化するのはおかしい。憲法によっていくら保証されていても、人権など全く無視されている国が大部分である。憲法がなければ日本人が国家から拉致されるのだ、など、およそ国家観として歪んでいると思うし、第一日本人をバカにしきっている話でしょう。 >「人と国家の対立点」 >公務員の平均給与は年収で1000万円である。方や民間平均年収は300万円から400万円である。何で公僕が主人の3倍も給与が貰えるの?不思議だな。 これは、「人と国家」ではなく、「民間人と役人」。 沈黙の初夏氏の、反・官僚国家、の説には、賛成。 |
炎天下の畑で這いつくばった作業の合間に読むには、スレッドの流れが速すぎて、とてもついていけませんが・・・ 削除・移動される前に、保管しておきたいです。 ▼告天子さん: >「自分で考えて」間違った結論を出すよりは、教えられたことに忠実になって正しい結論を導いた方がましなのは自明ですからね。空っぽな入れ物なのは、あなたも同じでしょう。そこに何を入れるのかが、問題。 >読んだ本の見聞を参考にしているのは、当然ですよ、体験は有限ですからね。それが「正しいかどうか」を、取捨選択し、咀嚼して判断するのは、まさにその人自身なのですよ。 >その道のりを正しく知ろうとすれば、誰でも、日本の国家は日本人の歴史、精神史と共に歩んできたものであり、中国ともアメリカともイギリスとも違う、全く独自の道を歩んできた、独自の精神を持ってきた国家であることを知るだろう。簡単に「国家」と一般化することで、「全ての国家」を知ることにはならない。 >ところで、あなた方は、「国家の過去」についてはほとんど考えようとしない。あたかも戦前の日本は、「悪の帝国」としてしか存在しないかのようで、江戸時代以前の日本人とも精神的な一体感など持たないのだ。歴史を同じくしようとしないのだ。 >歴史を学ぶことは未来に光を当てること? >変転する歴史の中に常住なるものの影を探して行くのが、歴史を学ぶことだ。日本史の場合ならば、「日本人の精神」を知る、ということだろうね。あなたの言葉からは、一般的理性の立場からの精神は感じても、過去の日本人に対する理解、同情、共感というものが、ほとんど感じられない。 >まあ、そういう精神の在り方というのは、「日本人」からしてみれば、独裁者とか専制者に近いと思うよ、「日本人として」日本になろうじゃないか、「人として」などではなく。 >「国民のために国家がある」という規定は、誤りです。 >これは、「国家のために国民がある」という規定が誤りであるのと同じことです。両者は、お互いに高次に補い合うべきものでしょう。 心にびんびん響きます。 |