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 ▼刑罰はこれで良いのか  もの申す 05/9/28(水) 16:06
   ┣Re(1):刑罰はこれで良いのか  k・satou 05/9/28(水) 23:26
   ┣Re(1):刑罰はこれで良いのか  BadBloke 05/9/29(木) 8:14
   ┃  ┣Re(2):刑罰はこれで良いのか  k.satou 05/9/29(木) 11:19
   ┃  ┃  ┗三木清で寄り道 Revisited  BadBloke 05/9/29(木) 13:13
   ┃  ┃     ┗Re(1):三木清で寄り道 Revisited  k・satou 05/9/29(木) 16:42
   ┃  ┗レスありがとうございました  コップ酒 05/9/30(金) 5:18
   ┃     ┣Re(1):レスありがとうございました  BadBloke 05/10/1(土) 8:56
   ┃     ┃  ┗Re(2):レスありがとうございました  コップ酒 05/10/1(土) 12:20
   ┃     ┃     ┗駿台でちょっと寄り道  BadBloke 05/10/2(日) 6:49
   ┃     ┣学生運動の事実(1)  BadBloke 05/10/2(日) 17:25
   ┃     ┗学生運動の事実(2)  BadBloke 05/10/2(日) 17:28
   ┗[管理人削除]   
      ┗移動しました  管理スタッフ 05/9/30(金) 23:35

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 ■題名 : 刑罰はこれで良いのか
 ■名前 : もの申す
 ■日付 : 05/9/28(水) 16:06
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   s.satouさんが提起された「死刑の是非」のスレッドが制限に達しましたので、新たに立ち上げさせて戴きます。
死刑制度の問題では老人党諸賢の貴重なご意見を拝見し勉強になりました。論議は尽きないと思いますが、表記の問題についてご意見を聞かせて欲しいと思います。

走行中及び信号停車中に発砲される事件が起きました。幸い死傷者が出ておりませんが、ガンマニアなどによる類似の犯行が懸念されます。銃砲類の発砲は銃刀法で無期または懲役三年以上となっていますが、エアガンの場合はどうなるのでしょうか。

先日、リフォーム詐欺で起訴された男に懲役一年の判決が出ました。求刑は一年六ヶ月だったと思います。認知症の老人を含め多数の人々を騙し、被告は七千万円を超える収入を得ていたとのことです。被害者はほとんど泣き寝入りになりそうだと言われています。懲役一年は妥当な刑罰なのでしょうか。

飲酒運転で轢逃げし、被害者が死亡した事件の被告に懲役二年十ヶ月の判決が言い渡されました。轢逃げした翌日警察に出頭してきたが、一日経っているのでアルコールが検出できず「危険運転致死傷罪」が適用できない為、業務上過失致死傷罪で起訴された結果です。飲酒運転で人を撥ね殺したらその場から逃走し、翌日自首するほうが刑罰が軽くなることを証明した事件です。その他類似の犯罪で懲役三年程度の判決はざらにあるそうです。これでは死んだ被害者は浮かばれません。

その他メディアで報道される裁判の判決に納得できたためしがありません。死刑の問題は別にして考えた時、日本の刑罰はこのままで良いのでしょうか。
被害者のほとんどが泣き寝入りを余儀なくされています。人を不幸に陥れた犯罪者は数年たてば社会に復帰し、被害者のことなど一顧だにしないまま社会生活を送ります。日本は犯罪者に大変優しい国だと思えてなりません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):刑罰はこれで良いのか  ■名前 : k・satou <cbl13464@nifty.com>  ■日付 : 05/9/28(水) 23:26  -------------------------------------------------------------------------
   ▼もの申すさん:
 なにしろ刑法は嫌いでしたので
 すこし頭に栄養を与えてから 出直します。
 すみません。
  ”警察国家は困る”とだけ答えさせてください。


>s.satouさんが提起された「死刑の是非」のスレッドが制限に達しましたので、新たに立ち上げさせて戴きます。
>死刑制度の問題では老人党諸賢の貴重なご意見を拝見し勉強になりました。論議は尽きないと思いますが、表記の問題についてご意見を聞かせて欲しいと思います。
>
>走行中及び信号停車中に発砲される事件が起きました。幸い死傷者が出ておりませんが、ガンマニアなどによる類似の犯行が懸念されます。銃砲類の発砲は銃刀法で無期または懲役三年以上となっていますが、エアガンの場合はどうなるのでしょうか。
>
>先日、リフォーム詐欺で起訴された男に懲役一年の判決が出ました。求刑は一年六ヶ月だったと思います。認知症の老人を含め多数の人々を騙し、被告は七千万円を超える収入を得ていたとのことです。被害者はほとんど泣き寝入りになりそうだと言われています。懲役一年は妥当な刑罰なのでしょうか。
>
>飲酒運転で轢逃げし、被害者が死亡した事件の被告に懲役二年十ヶ月の判決が言い渡されました。轢逃げした翌日警察に出頭してきたが、一日経っているのでアルコールが検出できず「危険運転致死傷罪」が適用できない為、業務上過失致死傷罪で起訴された結果です。飲酒運転で人を撥ね殺したらその場から逃走し、翌日自首するほうが刑罰が軽くなることを証明した事件です。その他類似の犯罪で懲役三年程度の判決はざらにあるそうです。これでは死んだ被害者は浮かばれません。
>
>その他メディアで報道される裁判の判決に納得できたためしがありません。死刑の問題は別にして考えた時、日本の刑罰はこのままで良いのでしょうか。
>被害者のほとんどが泣き寝入りを余儀なくされています。人を不幸に陥れた犯罪者は数年たてば社会に復帰し、被害者のことなど一顧だにしないまま社会生活を送ります。日本は犯罪者に大変優しい国だと思えてなりません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):刑罰はこれで良いのか  ■名前 : BadBloke <v_badbloke@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/9/29(木) 8:14  -------------------------------------------------------------------------
   『死刑が執行されましたね』のスレッドにおける<コップ酒さん>の次の投稿、

http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=63783;id=sougou

http://www.6410.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=63784;id=sougou

に関して、部分的な応答をしたいと思います。

>>60年安保闘争の頃は、まだそんなもんかぶっていなかったのですよ。
>>無防備な学生たちに機動隊が暴力をふるうものだから、ヘルメットを
>>かぶるようになったのです。

>何をおっしゃっているんですか?
>「国会構内乱入事件」(34年11月)、「国会請願デモ事件」
>(35年4月)、「首相官邸乱入事件」(35年5月、6月)などの
>事件を起こしたとき、全学連の学生達は角材や石塊で武装し
>警察部隊と激しい衝突を繰り返しましたよ。
>
>鶏が先か卵が先かということではなく、事実としては
>全学連の学生達だって「武装」していた、ということです。
>当時、日本はすでに法治国家です。全学連が破壊行動に出た
>から警察部隊も応酬しただけでしょう。彼ら警察部隊は、
>法に則って、自らの職務を遂行したまでです。

溜め息ばかりついていても仕方がないから、なんとか気を取りもどして、写真を数枚アップしました。どれも60年安保闘争の写真です。

http://www.muchos.co.uk/members/tobysdad_jp/anpohantai.1.jpg

http://www.muchos.co.uk/members/tobysdad_jp/anpohantai.2.jpg

http://www.muchos.co.uk/members/tobysdad_jp/anpohantai.3.jpg

http://www.muchos.co.uk/members/tobysdad_jp/anpohantai.4.jpg

デモに参加した学生たちは、だれもヘルメットをかぶっていませんね。ぼくはこのことを指摘したのですよ。どうしてそんなに反撃調になれるのですか? ついでながら、どうしても元号で年代を表したかったら、せめて<昭和>をつけてくれませんか。ぼくは一瞬、え!1930年代!!なんて驚いちゃいました。

60年安保闘争のさい、警官隊によって殺された樺美智子さん(当時、東大の学生)は、デモに出かける前に、母親と次のような会話をしていました。

母:「どうかデモに行かないで。あなたたちは学生なのだもの、目標は別にあるでしょう」
娘:「お母さんは私さえデモに行かなければ満足なの? 友だちが行って、私ひとりが行かなければいいの?」
母:「学生だけがはげしいデモをして、そのうえに座りこみまでして傷を受けるの、見ていられない......。労働者が力を合わせて、いっしょにしなければ何もできないはずよ」
娘:「そのとおりよ。ゼネストしなけりゃダメなのはわかっている。でも、あの人たちには生活がある。かわいそうよ。だから学生がやるのよ。だれかがしなけりゃ。検束されるのは決してよくないけれど、それでも仕方がないことだもの。ここで闘わなけりゃ!」
         日高六郎『戦後思想を考える』(岩波新書)より

「当時、日本はすでに法治国家です」と、あなたはおっしゃる。ということは、樺美智子さんを警官隊が殺したのも、あなたのいう「職務を遂行したまで」ということになるのでしょうね。コップ酒さんのセンスでは、そうなるのかもしれないけれど、ぼくのセンスからすると、全然ちがう話になりますね。ぼくの考えでは、法治国家とは、国民の権利を国家が保障するかぎりにおいて、法の支配が許された国家のことです。弱い者いじめをするために、法律や警察権力があるのだとすれば、それはもはや法治国家ではありません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):刑罰はこれで良いのか  ■名前 : k.satou <kenji.satou.coa@ceres.ocn.ne.jp>  ■日付 : 05/9/29(木) 11:19  -------------------------------------------------------------------------
   BadBlokeさん
 よこからどうもすみません。
 全く賛同するものです。
 こんな話をよく しましたね。いまでも。

 憲法は国民のためにあるので国民が憲法のためにあるのではない。
  いい方に改定しようじゃないか!と言い出す人達がいました。
  これらの人たちは未だ一度たりとも憲法を尊重する努力を事実において
  示したことはない。現在の憲法を尊重した後にこそ 
  これの改正を口にできるのではないか。

 日米安保条約は 条約だから 憲法に優先するなどとも
  条約は日本政府の憲法尊重を前提にしているものであり
  日本政府はその憲法尊重の誠意を実証した事実を示さねばならない。 

 行政権の行使は司法の判断になじまない。
  これこそ 語るに落ちる。自らも信じず 苦心惨憺で
  日本国憲法違反の事実を回避しているものです。
  自衛隊の軍事体制およびその憲法違反をさらに深刻化させている
  日米安全保障条約こそ 廃棄すべきである。

 自衛権はどうしてくれる?などいう。
  国民は自衛隊とアメリカ軍によって
  しんから保障されていると確信してはいない。
  人々の抵抗こそ唯一の力であることは レジスタンスの実証したとおりです
  あくまで 日米安全保障条約は軍事条約であり 
  ”アメリカ合衆国の軍隊の日本国内およびその付近における
  配備を規律する条件は両国政府の行政協定で決定する。”というが
  その行政協定に内容のないものは 白紙委任状というわけです。
  つまり 白紙委任状的軍事条約というわけです。
  白紙委任状を出しておいていかなる外交もなしえません。
  当初6つか7つ結ばれた条約は あとこれのみです。
  つまり 世界遺産ともいえるものです。
  一刻も早く これをすて 軍事体制なんかによらず
  平和を愛する諸国民の公正と信義に依頼して 安全と生存を保持しようと
  決意した憲法にたちかえり 真の安全を保障されるべきです。

 みなさんどうぞそんな崇高なお気持ちをつらぬいてください!
 あとは我々政治家や官僚に お任せあれ!というのが筋じゃないか!
 そのために 税金をはらってるんだ。と思うのです。


 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 三木清で寄り道 Revisited  ■名前 : BadBloke <v_badbloke@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/9/29(木) 13:13  -------------------------------------------------------------------------
   k.satouさん

ハーバート・ノーマンが三木清と関係していたことは初めて知りました。感謝します。ノーマンは安藤昌益に関心をもつような人だから、世間から忘れられた良き思想家には敏感だったのでしょうね。三木清もノーマンも、ともに今ではほとんど忘れられた人たちであることを思うと、なんだか淋しい気持ちがします。

最近、三木清とゲッペルスの共通点を発見しました。なんて言うと、ちょっとビックリするでしょうか。たいしたことじゃないんですが、生没年が全く同じで、1897年に生まれて1945年に亡くなっているんです。しかも、ふたりともハイデルベルク大学で学んでいます。

しかし、もちろん、このふたりは根本的にちがう人生を送りましたね。三木清は真に哲学することに生き、ゲッペルスは国民を惑わすために知恵を用いた。三木清は悪い権力によって命を奪われ、ゲッペルスは悪い権力をもったがゆえに最後は自らの命を奪うしかなかった。

それにしても、ゲッペルスはその名を世界中に知られているし、今でも忘れられていないのに、三木清のことを知る人は、日本人にさえほとんどいないというのは、なんともこの世の不条理を感じさせます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):三木清で寄り道 Revisited  ■名前 : k・satou <cbl13464@nifty.com>  ■日付 : 05/9/29(木) 16:42  -------------------------------------------------------------------------
   ▼BadBlokeさん:
”みちのくの夏草ながし うてどもうてども夏草ながし” 
 三木清が書いていた。と。
 1922年6月のハイデルベルグの初夏 
  大内兵衛・糸井靖之・森五郎らとの思い出は楽しかったと。

 獄死後7年
 かれの生まれた竜野の町はずれの丘の上に 花束をささげて 下ってくると
 田畑のなかの道をただひとり老人があった。まぎれもない父であった。
 在りし日の三木清の姿をそこに見 走ってその人を抱いて頬をすりつけて
 号泣した。そのときその父はただ一言いったという。
 ”人間は皮膚病で死なぬ”
 殺したのはだれか そう彼の父は問うていた。
 それは三木清が老いて苦しんでいる顔であった。と
 羽仁五郎はつづけてます。 
 生命をかなしむことを知らないものに人間について語るのは無駄だと。 
 48歳で多くの春秋をのこしての獄死はかなしい。1945年9月25日
  病状書が検事局に出されたのは死の前日。保釈手続きは死の当日。
  かかりの医者も看護の人もいなかった。だれひとり。
  1936年の喜美子夫人をなくしその夫人の母のすすめでの糸子夫人
  との3年後の再婚。
  喜美子さんのわすれがたみ(洋子)を可愛がる病床の糸子さんをも
  1944年春亡くす。
 ともに学んだハイデッカーはナチにいきその節操を失ったが
 三木清はファッシズムに抵抗して獄死した。
  死しても なお三木清は 私たちの心に生きているとおもうのです。
   三木清なら今の日本の・世界の状況をどういうのか?と


>k.satouさん
>
>ハーバート・ノーマンが三木清と関係していたことは初めて知りました。感謝します。ノーマンは安藤昌益に関心をもつような人だから、世間から忘れられた良き思想家には敏感だったのでしょうね。三木清もノーマンも、ともに今ではほとんど忘れられた人たちであることを思うと、なんだか淋しい気持ちがします。
>
>最近、三木清とゲッペルスの共通点を発見しました。なんて言うと、ちょっとビックリするでしょうか。たいしたことじゃないんですが、生没年が全く同じで、1897年に生まれて1945年に亡くなっているんです。しかも、ふたりともハイデルベルク大学で学んでいます。
>
>しかし、もちろん、このふたりは根本的にちがう人生を送りましたね。三木清は真に哲学することに生き、ゲッペルスは国民を惑わすために知恵を用いた。三木清は悪い権力によって命を奪われ、ゲッペルスは悪い権力をもったがゆえに最後は自らの命を奪うしかなかった。
>
>それにしても、ゲッペルスはその名を世界中に知られているし、今でも忘れられていないのに、三木清のことを知る人は、日本人にさえほとんどいないというのは、なんともこの世の不条理を感じさせます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : レスありがとうございました  ■名前 : コップ酒  ■日付 : 05/9/30(金) 5:18  -------------------------------------------------------------------------
   ▼BadBlokeさん:こんにちは。レスをどうもありがとうございました。

60年安保闘争の頃、全学連はヘルメットをかぶっていなかった、
のに機動隊が暴力を振るうからヘルメット着用にしたのだ、
という悪いやつさんに対し、

昭和34〜35年(1959〜1960年)にかけて全学連が起こした
事件で角材や石の塊で武装してました、とわたしは申し上げました。

>溜め息ばかりついていても仕方がないから、なんとか気を取りもどして、
写真を数枚アップしました。どれも60年安保闘争の写真です。

写真アップ、わざわざどうもありがとうございました。
確かに写真はヘルメットを被っていませんよね。

ただ、写真の撮影時期とどのサイトに掲載されているのかが
わかりません。
悪いやつさんは「60年安保のときはノーヘルだった」と
おっしゃっているので、この点に関して言えば撮影時期の
明記はいちばんのポイントになりますよね。

>どうしてそんなに反撃調になれるのですか? ついでながら、どうしても元号で年代を表したかったら、せめて<昭和>をつけてくれませんか。ぼくは一瞬、え!1930年代!!なんて驚いちゃいました。

えっ反撃調?と思ってもう一度見直しましたら確かにきつい
言い方でした。また、昭和と西暦についてもすっかり書き忘れて
いました。ごめんなさい。この点お詫びいたします。

>「当時、日本はすでに法治国家です」と、あなたはおっしゃる。ということは、樺美智子さんを警官隊が殺したのも、あなたのいう「職務を遂行したまで」ということになるのでしょうね。
ぼくの考えでは、法治国家とは、国民の権利を国家が保障するかぎりにおいて、法の支配が許された国家のことです。弱い者いじめをするために、法律や警察権力があるのだとすれば、それはもはや法治国家ではありません。

樺美智子さんが亡くなられたのは非常にお気の毒だと思います。

そのときの状況ですが、1960年(昭和35年)の5月20日未明、
日米安保条約衆議院本会議で強行採決されて、院外でも社会党や
総評、学生などのデモが連日国会を取り巻き、激烈を極めた、
そうですね。

そんななか、条約批准のために6月10日に米大統領秘書官
ハガチー氏が来日、でも羽田には抗議のデモ隊が結集していた
そうですが、車は猛スピードで走り出し弁天橋と双子橋の先にいた
デモ隊の近くに突っ込み、身動きがとれなくなりヘリコプターで脱出
した、と。

続いて6月15日、全国で580万人がデモをおこなって、この日
全学連主流派が国会突入をはかり警察官と衝突、東大生・樺美智 
子(22)が死亡した。こんな感じのようですね。
(間違いありましたらご指摘ください)

わたしが思ったのは、全国で学生運動が吹き荒れるなか、
全学連がついに国会という「議論の牙城」に「暴力で突入」した、
と。
ここで全学連をオサエないと、学生運動が収拾がつかなくなり、
社会秩序が危機に晒されると。

国会に一般国民が入館する場合、昔から必ず入館許可証が
必要になることはご存知ですよね。

全学連が国会に突入したことは、すでにこのルールを犯した
わけで、悪いやつさんがおっしゃるように彼らを「弱い者」
だとはわたしには思えないのです。

政治的主張その他、自分の目的を達するためなら、
手段はいとわない。全学連は体をはって国会に突入し、
安保締結を阻止しようとしたのだ。

そうお考えになるのでしたら、それは法治国家に生きる
べきではないと思います。

いくら学生(弱者)VS国家権力(強者)という一見
わかりやすい構図だろうと、弱者を理由に法を犯しても
いい、というのはゲリラの、テロリストの考えと同じです。
そうは思われませんでしょうか?


三木清の話は興味深く拝読しつつ、なんかコップ酒の
レスだけ浮きまくっていて心苦しいのですが(汗)、
そんなふうに思いました。
失礼しました。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(1):レスありがとうございました  ■名前 : BadBloke <v_badbloke@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/10/1(土) 8:56  -------------------------------------------------------------------------
   コップ酒さん

前回なにか言い忘れていたと思ったのですが、あなたは以前たしか専門バカの話をされていましたね。もしかして、ぼくのことを専門バカだと思っているんでちゅか? フムフム、ムフフ。ならば、話しましょうか。ぼくはですね、もし大学の専攻が<専門>だとすれば、細胞生物学なんですよ。そうだったのかなあ、なんて自分でも不思議なんですが。親はぼくを医学部に入れたかったらしいのですが、子どもの頃に家族で大学構内を散歩していたとき、医学部の校舎の近くで犬の泣き声らしきものが聞こえましてね。医学部というところは犬を実験に使うのかと思い、ぞっとしたわけです。とてもじゃないが、そんなところには入れないなと。

それに、ぼくは受験だというのに、友だちが『基本英文700選』なんかを必死に暗記しているのも気にせず、モンテーニュを読むためにはフランス語を修得せねばなるまいなとか、余計なことばかり考えていたのですね。女の子めあてに、アテネ・フランセに通おうとまでは考えつかなかったですが。

そんなわけで、ぼくが医学部に合格できたら、サルでも合格できちゃう。で、結局落ちついたのが、理学部。ぼくのいい加減さは大学に入学したらさらに加速しまして、もともと関心のあった哲学などの講義を勝手に聴講したり、そりゃあでたらめな学生生活でしたよ。

その後もぼくの人生は、一貫して専門どこ吹く風よ式で通し、今日に至っております。この老人党掲示板に参加したのは、専門とは関係のないところで自由に発言できそうな気がしたからです。細胞学のことなんか質問されたら、何も答えられないですからね。

学生運動の話をつづけようと思ったのですが、この48時間の間に、3時間ほどしか眠っていないので、今はとてもその闘志がわきません。少し元気になったら、つづけます。それでは、今回はぼくの専門のバカ話でおしまい

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re(2):レスありがとうございました  ■名前 : コップ酒  ■日付 : 05/10/1(土) 12:20  -------------------------------------------------------------------------
   ▼BadBlokeさん:こんにちは、レスありがとうございます。

>もしかして、ぼくのことを専門バカだと思っているんでちゅか? 

いえいえ、全然そんなことは思っておりませんでちゅ。
それにしても決してシックな言葉ではありませんよね、
今後はもうちっと気をつけて使いたいと思います…(反省)。

>医学部というところは犬を実験に使うのかと思い、ぞっとしたわけです。とてもじゃないが、
>そんなところには入れないなと。

確かに…。街中でビーグル犬を見ると心が痛みます・・。

>それに、ぼくは受験だというのに、友だちが『基本英文700選』なんかを必死に暗記しているのも気にせず、モンテーニュを読むためにはフランス語を修得せねばなるまいなとか、余計なことばかり考えていたのですね。女の子めあてに、アテネ・フランセに通おうとまでは考えつかなかったですが。

わー、基本英文700選!英文解釈教室! 懐かし過ぎです。
駿台予備校の受験テキストのベストセラーでしたね。
そういえば伊藤先生は最近お亡くなりになったそうですね。。
っていうか、悪いやつさんてもしかして同年代なのでしょうか?(汗)

あ、でも女の子めあてにアテネ・フランス、っていうよりも
クラブ(ラにアクセントです・笑)に行くほうがメジャー
だったような気もするので、もう少し年代は上でいらっしゃる
のかも?(笑)まままどうでもいいですよねすみません。

>学生運動の話をつづけようと思ったのですが、この48時間の間に、3時間ほどしか眠っていないので、今はとてもその闘志がわきません。少し元気になったら、つづけます。それでは、今回はぼくの専門のバカ話でおしまい

「闘志」て…(汗)。あの、あんまりシリアスにお考えにならないで
くださいね。別になれ合っているわけではなくて(そんな義理も
ないですし馴れ合いは苦手で嫌いです)、睡眠不足は確実にキますし。
まったり時々ピキピキッ!くらい、ほどほどにマイペースで
お互いにいたしましょう。ズレましたすみません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 駿台でちょっと寄り道  ■名前 : BadBloke <v_badbloke@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/10/2(日) 6:49  -------------------------------------------------------------------------
   コップ酒さん

アテネ・フランセの話は、なださんが何かに書いていたんです。教室に女の子がいたから嬉しかったってなこと。ぼくも男ばかりの学校だったので、その気持ちシッカリ共鳴できます。ぼくの世代、岩波文庫を読む人も少ないように、アテネ・フランセに思いをはせる人も珍しいでしょうね。中原中也もあそこでフランス語を学んでいたんです。ぼくの青春時代(この言葉自体が今の若い人には古くさく響くのかな?)、中原中也の詩が好きでした。もうあの頃の感性は残っていないのかも。でも、それでいいような気もします。フランス語は結局、BBCのテキストで学びました。なんだかんだ言って、英国で落ちつくのは、ぼくのビョーキです。

伊藤先生がお亡くなりになっていたとは知りませんでした。夏期講習での授業だったと記憶していますが、You cannot have your cake and eat it を「お菓子は食べるとなくなるものよ」と訳して、みんなを笑わせたのは、あれは伊藤先生ではなかったでしょうか。

駿台でぼくがいちばん印象に残る先生は、数学の根岸先生です。数学は大好きだったけれど、受験ぽいのは苦手でした。それでも少しは点数が取れるようになったのは、根岸先生のおかげかもしれません。先生の授業によって、受験数学もけっこう楽しめることを知りました。

学生運動の話をするのに<闘志>とは、ちと大げさでしたか? あなたに対しての闘志というつもりで言ったわけでもないんですね。なんて言うか、あの当時の学生たちに、ぼくは敬意のようなものを感じるんです。すでに少し話したことから想像がつくと思うけれど、ぼくの学生生活は、まったく個人主義的なものでした。あるとき友人がこう言ったのを思い出します。「君はほんとうに毎日を楽しんでいるように見えるよ」。60年安保闘争の頃の学生たちは、ぼくのように自由に学生生活を楽しめなかったのじゃないかと思います。彼らは人間の自由のために闘ったのです。きっと日本の未来に希望をもっていたにちがいないのです。

寄り道だけのつもりが、本論に突入しそうな気配になりましたね。でも、もう少しエネルギー補給が必要です。じゃあ、またあとで。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 学生運動の事実(1)  ■名前 : BadBloke <v_badbloke@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/10/2(日) 17:25  -------------------------------------------------------------------------
   ▼コップ酒さん:

あなたも学生運動に悪いイメージをいだきながら育った世代のようですね。実はぼくもそうでした。子供の頃はそんなにテレビのニュースなんか見なかったし、新聞だってテレビ欄くらいしか読まなかったですからね。それでも、そんな子供にまで悪い印象を与えるほどに、当時のマスコミは、学生運動にマイナス・イメージを与えるような報道をしていたのでしょう。

ここで、1968年に始まる東大闘争の写真を1枚見ましょうか。

http://www.muchos.co.uk/members/tobysdad_jp/namiki.jpg

確かにこれだと、60年安保の頃とくらべて、かなり悪役っぽく見えますよね。でも、ぼくは思うに、安保闘争の頃もそうですが、安田講堂事件を頂点とする東大闘争の頃だって、日本の社会構造は、あまり民主的とは言えなかったのじゃないでしょうか。民主主義が単に権力体制の問題であれば、今回の選挙にしても民主的な結果と言えるわけでしょうし、コップ酒さんから見れば、現体制をラディカルに批判する人こそ変人なわけですよね?

しかし、ぼくらの世代は、どれほど学生運動の実体を知っているでしょうか。どこかから吹き込んできたウワサを信じるようにして、彼らを非難することはフェアなことでしょうか。実証的な事実の確認と、主体的な判断なしには、どんな歴史的事象も誤解されたままに過ぎゆくでしょう。まずは事実を知ることです。

東大闘争は医学部自治会と青医連が登録医制に反対して無期限ストに入ったことから始まります。教授会によって17人の学生・研修生たちが処分されたことにより、闘争はいよいよ過激になっていきました。そして大学側が警察力を学内に導入させたことで、医学部以外の学生たちにも闘争が飛び火し、全学的な紛争となりました。そして、あの歴史的な安田講堂<落城>で終わります。

医学部内の問題がなぜ全学規模の闘争に発展したか。60年安保闘争から引き継がれていた反戦運動だけでなく、授業料値上げ反対などの学内問題の闘争を通して、教育行政と警察という国家権力が学生運動を力で押さえ込もうとした。それに対して学生(全共闘)が果敢に対決するという図式ですね。ぼくは思うに、全共闘運動が過激になった根本的な理由は、民主的な手続きで学生の声が権力体制に届かず、かえって体制側が圧倒的な力でもって強引に運動を弾圧しようとしたことにあったのじゃないでしょうか。(つづく)

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 学生運動の事実(2)  ■名前 : BadBloke <v_badbloke@yahoo.co.uk>  ■日付 : 05/10/2(日) 17:28  -------------------------------------------------------------------------
   (つづき)

東大闘争と並行して起きた日大闘争を見れば、もっとわかりやすいかもしれません。日大の場合、闘争のきっかけは、22億円の使途不明金問題でした。それが大学の管理主義的体制に反発する学生たちの闘争心に火をつけたようです。以前より大学側と癒着した右翼や体育会の学生たちが、学生の自治会活動を暴力的に弾圧していました。時には右翼の介入により一度に数百人の負傷者が出ることもありました。また、警察力も導入されていました。

それでも、学生たちはがんばったのです。そして、とうとう彼らが要求していた大衆団交が実現し、大学側が学生の要求をすべて受け入れるという画期的な大勝利を収めることに成功したのです。ところが、その翌日、佐藤首相がこの団交を痛烈に批判したのに力を得た大学側は、一転して学生との約束を取り消し、警察権力を導入して大規模な弾圧を開始しました。完全武装した国家権力の前には、学生たちは全く無力です。どちらが勝ったか、言うまでもないでしょう。

当時、日大全共闘議長だった秋田さんは、公判でこう述べたそうです。

「力の論理が、正義の闘いを不正義にしてゆく」

今ぼくらが、彼らの闘いを弾圧した力の論理を見ないで、学生たちのヘルメット姿に不正義を見るのだとすれば、それはフェアなジャッジと言えるでしょうか?

もう一度60年安保闘争の頃にもどってみましょう。ここに当時の女子高校生の手記があります。

「私は今日[国会へのデモに]いこうとはおもっていませんでしたが、先生がたの話をきいていると、警官隊のあまりにひきょうなやりかたに、私はがまんができませんでした。くやしくてくやしくて、どうしようもありませんでした。でも私たちにはなにもできません。だから、せめて拍手でもおくったほうが、テレビをみて『くやしい、くやしい』といっているより、どんなにいいかとおもったからです」
          古在由重『思想とはなにか』(岩波新書)より

ぼくは戦争を知らないだけでなく、学生運動も知らずに育ちました。主体性のない受け身で得られた知識は、多くの場合、真実を見過ごすようです。純粋な気持ちをもって社会を改革していこうと努力した人たちがいる。権力に弾圧され、血だらけになって倒れても、あきらめなかった人たちがいる。そういう人たちに、ぼくはせめて拍手をおくる気持ちだけは持ちつづけたいと思っているのです。

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